「見て下さい。これがパイプ詰まりの原因ですよ。いまどき珍しいですね」
業者は何が起きているのかわかっていた。丹念に眺め、つぶやいた。
「こんな立派な絵を見ながらオナニーしたら最高だよなぁ」
百合子が春画を見ていると、なぜか春画の画面に恋人の顔が現れた。恋人は春画が好きで四十八手という手の込んだ性のテクニックがとても上手だった。今、ニューヨークで舞台芸術の修業をしている。懐かしんでいると、ふと恋人とリュウの顔が重なって見えた。二人は自分好みのタイプだと気づく。百合子は思わず笑ってしまった。
百合子は理事長室でリュウの浮世絵のいきさつを話した。華子はそれを聞いてふっふっと含み笑いをした。
笑った理由は百合子とは正反対だった。それは男性と浮世絵との深い因縁を知っているからこその微苦笑だった。
華子は17年前。新婚旅行でシンガポールへ行った夜、夫の誠が華子を抱かなかった苦い経験がある。
2日目の夜もバスルームに入ったまま夫がなかなか出てこない。不審に思った華子が見に行くと、中で浮世絵の春画を前にして、オナニーに必死になっている姿を見てしまった。
夫は汗にまみれ、疲労困憊の様子で、華子を見て吃驚して言い訳を言った。
「君のために何とかしようと頑張っているのだがね、なかなかうまくいかんのだよ」
華子はこの時知ったことだが、夫は浮世絵春画のマニアだったのだ。医学生の頃、患者の回復力を高める方法として浮世絵を研究したとき、逆に虜になってしまったのだ。初夜に失敗し、2日目は今度こそと、春画の助けを借りようとしたのだった。往々、麻酔科の先生が麻薬中毒になると同じように、夫も職業上の罠に陥った男のひとりであったのだ。
苦笑いをやめ、気を取りなおした華子は、医者の立場を取り戻し、ノートを取り出して予診を始めた。
「男と浮世絵はよくある話よ、それよりもリュウは父親の死に際してどんな様子だったの」
百合子は答えた。
「あれだけ可愛がってくれた父親ですもの。ただでさえショックなのに、兄の最後が畳の上じゃなかったこともあって、リュウは相当こたえたと思うわ、ところが本人は意外に落ち着いていたの」
百合子はその時のことを思い浮かべた。
警察からの電話があったのは1月10日の未明であった。兄が中川運河に浮かんでいたという。引き揚げたが残念ながら溺死を確認した、検視が済んだ為すぐ名古屋港警察署へ来てほしいというものであった。
百合子が駆けつけると死体安置所の中でひとり、兄の死骸に取りすがったリュウがいた。現れた百合子に気がつかない。気がついたのは百合子が遺体に触るなり、 「なんて冷たいの」と思わず大声を上げたときだった。リュウが近づいてきて声をかけた。
「父はこの正月、肝臓がんで酒が飲めない筈なのに、無理をして大量の酒を飲んでいました。父は覚悟していたと思います」
リュウは落ち着いて話しかけのだ。百合子の悲しみを和らげるかのように。百合子はリュウこそ一番悲しい筈、まして入試の勉強の大変な時なのにと、自分より相手を気遣うリュウの優しさに心を打たれ、一段と涙が湧いてきたことを覚えている。
華子はそれを聞いて、
「そうなの、落ち着いて優しいリュウだったのね」
と予診ノートに記入し、書きながら訊ねてゆく。
「その他、リュウの行動で気づいたことはない」
百合子は親族会議の時、優しいリュウが意外にも抵抗したことを思い出した。
百合子は親族会議のいきさつを語った。
大垣の親戚がリュウを引き取ることを申し出た時、リュウは返事をしなかった。 見ると顔面が蒼白になっていた。百合子は見るに見かねて、友達との別れが辛いようだから、しばらく転校を見合わせましょうと、その場を取り繕った。百合子は後日、掃除の小母さんにリュウの状況を聞いて見た。葬儀のあと、リュウは学校へはきちんと通っているらしい。しかし掃除の小母さんの勘では、リュウは学校に好きな女生徒がいるらしい。
華子はそれを聞いて不審に思った。
「好きな女生徒がいるのに、どうして不登校になったのかしら」
作者・桜樹由紀夫さんの自己紹介とプロフィール
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