2006年10月05日

風の通る家

 ここしばらく、いつも香織の頭の中では歌が聞こえる。

 今朝、卵をボールに割り入れるときにも、その歌が聞こえていた。ウインナーのたこがフライパンの中で踊っているときも、小鍋の湯に入ったブロッコリーが鮮やかな緑色に変わったときも、やまないBGMのようにかすかな歌声が聞こえていた。

 この歌はなに? 三ヶ月前、突如として頭の中に歌声がしはじめたころ、香織は家に一人になったときを見計らって耳を澄ましたものだ。そのか細くて切れ切れの声は女か子供のもののようで、じっとして聞いていると眠くなる。でも、なんの歌かはわからない。

 弁当を一心に用意する香織の背後を、父親はそっとすり抜けて、食品棚から食パンの袋を、冷蔵庫から牛乳を取り出した。テーブルにつくと、向かいに座っている寝ぼけ眼の香織の弟に、「ほらっ」とトーストしていない食パンを一切れ差し出す。弟は受け取った手で口の中に食パンをねじこんでいく。父親はテーブルに置きっぱなしだったコップをのぞきこみ、くんくんと鼻を鳴らして、「まだ大丈夫か」と独り言を言いながら牛乳を注ぐ。

「いってくる」

 父親が声をかけても、弁当を作りおえてソファに倒れこんだ香織はなんの反応も返さない。父親はいつもの手際で弁当箱を紫色の巾着に入れ、それから居間の奥にある白黒写真の前でお輪をチーンと鳴らして手を合わせ、玄関に向かう。弟は無言で弁当をひっつかんであとを追う。ぱたんぱたんとドアが二度開け閉めされると、家の中は香織一人になった。

 りらららりららら。香織の体がぴくりと震えた。玄関脇に置かれた携帯電話のメール着信音だ。短大の同級生が一緒に学校に行こうとさりげなく誘ってきたのか、それとも彼女の近況を伝え聞いた高校時代の友人からか。どのみち、香織は携帯にふれもしない。一日中ソファの上で居眠りをして、これでもう三ヶ月、家から一歩も出ていない。

 携帯の音がやむと、家の中は埃が降りつもる音まで聞こえそうなほど静かになった。
 香織は横になったまま手を顔で隠した。こうすると、外の音がよく聞こえる。どこかで水を撒く音がする。車のタイヤが路面をこする音も。不思議なことに、頭の中の歌声までもがより鮮明に聞こえる。玄関ドアの向こうでだれかが彼女のためだけに歌ってくれているみたいに。香織の顔にうっすらと笑みが浮かぶが、すぐに痙攣したかのように手を顔から離し、ぱたりと床に落とす。いやいやと首をふる。ぶつぶつとなにかつぶやく。何度か同じ言葉を繰り返した末、金切り声になる。

「太郎、太郎ってば」

 すると、猫が一匹、居間の脇の階段を下りてくる。ふっくらとした体つきの雄の三毛猫だ。ソファのすぐそばまで来ると、突然、透明の壁にぶつかったように立ちすくみ、ニャアと一声鳴いた。香織は片手を伸ばして、嫌がる猫の首元をつかみ、力ずくで抱きすくめて鼻面にキスをしようとした。猫は前足で香織の顔を引っかき、後ろ足で腹を蹴り、逃げた。

 頬にふれると、手がぬるりとした。鼓動が大きくなり、耳の奥が血流の音でいっぱいになった。傷は深いのか、血はてのひら全体を赤く染めたうえに、顎に伝ってきた。香織はしばらく赤い手を見つめつづけた。

 数分後、香織はキッチンの奥の脱衣所にいた。自分の鏡像と見つめ合っている。頬の五センチほどの傷はまだ出血し、ずきずきと痛む。胸元まで血の道ができている。鏡の横の棚からハンドタオルを取り出し、水で濡らして顔に当てる。頭の中が急速に静まり、入れ替わりにあの歌が大きく、いつも以上に大きく聞こえてきた。タオルを置いて鏡をのぞきこむと、血はあらかた止まっていた。

 そのとき、まだ生きていた母親の姿が、鏡の中の自分に二重写しになって見えた。三ヶ月と少し前、集中治療室のベッドからこちらを見あげていた母親のむくんだ顔。

 喉元にこみあげるものがあったが、香織はこらえた。

 ふらつく足で居間へ戻った。しかし、いつものようにソファに倒れこむことなく、そのまま廊下に出た。ゆっくりと玄関へ近づいていく。あの歌声に、家の外から呼ばれているみたいに。下駄箱の上でモールス信号のように点滅している携帯電話にもかまわずに。

 裸足でたたきに立ち、少しためらった。それから大きく息を吸って、ドアを押し開けた。途端に、涼しい外気がどっと家の中に入ってきた。陽光にあふれた世界は、露出過多の写真のように白くかすんでいる。一度、後ろをふり向いた。ソファの向こうで、白いレースカーテンが大きくはためいているのが見えた。香織は大きく息を吸って外に向きなおり、最初の一歩を踏み出した。

〈ここまでおいで、あんよはじょうず、ころぶはおへた〉

 母親の歌声があるから、大丈夫。怖くない。



 作者・蟹江カニ子さんのプロフィール
posted by 村松恒平 at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 風の通る家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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