2006年06月28日

彼の岸異聞 ( 1.向こう岸 )

満鉄に仕事口があると聞いて大連まできた。ところが大連の満鉄に着いて聞くともう仕事は無いという。親が反対するのもきかず、兄と叔父に借金し、海をわたってここまで来た。このままで日本には戻れない。

アテもなく港橋をわたって山県通りを歩いた。これが都会というものか?広い通りには洋風の建物が並んでいる。銀行、病院はもちろん汽船会社、建設会社、通信社、映画会社、薬屋から呉服屋、楽器店までレンガ造りの建物はどれも6−7階建てで間口の広い立派な店構え。品物も豊富だ。内地で施かれている価格統制も「欲しがりません勝つまでは」の悲痛なスローガンもここには届かない。日暮れ時だというのにこの賑わい、人々の顔も明るく見える。満州はこの世の楽土、そう言ったのは誰だったろう。

人通りから外れて青葉の並木の脇にたたずむと、ため息がでた。夏だというのに乾いた冷風が吹き並木がザワザワと鳴った。運転さえできれば仕事はあるだろうとの見こみは甘かったかもしれない。この人の多さからすると、自分のような者がゴマンといるのではないか。見慣れぬ雑踏をぼんやり眺めるうち幸太は心細くなってきた。

そんな気持ちはすっかり幸太の顔に表れていたのかもしれない。「あんた、運転でけるんか?」突然の声に振向くと、こぎれいな身なりの小男が幸太を見上げて笑っている。その細い目が幸太の貧相な身なりを小ざかしく値踏みしている。「ハルピンへ行かへん?、仕事あるで。」心細さから、幸太はふたつ返事でこの話にのりそうになった。が、ぐっとこらえて唇を固く結ぶ。
「わし、大連へきたら仕事があるいうけんここへきたんじゃ。でも来てみたらもう無かった。こんな調子じゃぁ、これより北の方へは行きとうない。」
「ま、考えといて。」小男は幸太の不安を見透かしたように笑い、通りのはす向かいの建物を指して会社の名前らしきものを告げた。

二日後、男に教えられた建物の扉を押し開けた幸太はあの同じ笑顔で小男に迎えられた。男は内ポケットから銀のシガレットケースを取り出し幸太が見たこともない舶来物のタバコを勧めた。普段なら見知らぬ人の勧めるものは用心深く遠慮する幸太だが、つい好奇心に負けて手を出した。小男は満足げに笑った。幸太が迷っている間にハルピンの仕事は人繰りがついたという。またも仕事にあぶれた幸太は結局決まった仕事には就けず、この小男の紹介でちょこちょこと細切れのいろんな仕事を引き受けることになった。トラックさえ用意してもらえばなんでも運ぶ、そういう約束だ。

とりあえず自分の自慢は腕力と知恵だけだ、と幸太は思っている。自動車のハンドルは車の大きさに比例して大きく重くなる。堅いシートに腰掛けたまま、腕の力だけでハンドルをきる。パワーステアリングなどという便利な仕組みはもちろんない。自然、腕力や握力がつく。肩から腕にかけて盛り上がった筋肉をみるたび、幸太は丈夫な体を我ながら頼もしく思い、見知らぬ土地で暮らす不安も忘れて仕事にはげんだ。

ある夜、大連港から砂糖を積んだ。他の車は軍や業者の倉庫へ行くのに幸太のトラックだけは行き先が違う。実はそれまでにも2-3回こんなことがあった。最初はなんだかよく分からなかった幸太も、今は自分が何をさせられているのか察しがつく。こういった矛盾はいつでもどこでも人の世につき物だ。反感や苛立ちは感じなかった。なるほど、これが今の時代の儲け方だ。世の中強いものが得するようにできている。強いものがずるいことをしても、弱いものは黙って見ているしかない。人の善悪をとやかく言う前に自分がまず強い者にならねばならない。そう思っただけだった。

目的地に着くと人足達が荷をおろす。幸太はそのわずかな間にウトウトして夢を見た。トラックの荷台から蛆か蚯蚓のような細長い、白いものがするりとすべり降りて夜道を這っていく。幸太はトラックを降りて追いかける。白いものはだんだん伸びて糸のようになりながら小便臭い小路を抜け、今にも崩れそうな建物がロの字型に囲む広場を突っ切って、小さなボロ家に姿を消した。中には満人の子供がいて白いものをうまそうに舐めている。「うまいか?」と聞くと、「うまいよ」と日本語で答えた。「日本語しゃべれるんか?」「はい」そこで目が覚めた。

なんだ夢か。

ひょいと荷台を見ると、砂糖箱の上を、先ほどの白いものが這っている。あれは夢ではなかったか、いや、自分はまだ夢の続きを見ているのだろうか。暗がりに目を凝らすとその白いものは箱の隙間から中に入っていくようだ。幸太は運転席から飛び降りた。同時に荷台の下からぱっと何かが駆けだした。追って捕まえると満人の子供だ。小さな白い手に砂糖を握っている。「泥棒!」と怒鳴ると、「泥棒ではない」と日本語で答えた。「日本語しゃべれるんか?」「はい」

急に力の抜けた幸太の手をすりぬけて子供は逃げた。その後姿を溶し込んだ暗闇をにらみながら幸太は、これは夢の続きに違いないとつぶやいた。なぜならあの子供の声は夢で聞いた声、あの顔は夢で見た顔だったから。


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2006年07月24日

彼の岸異聞 ( 2.風呂嫌い )

小男の世話で、幸太は南山麓の洋館に間借りをした。南山は大連埠頭を望む低いはげ山だ。ふもとには東洋一と名高い満鉄大連病院、斜面は大連に住む日本人の高級住宅地になっている。

馬車や洋車が往来する広い石畳の並木道を通りぬけ、煉瓦塀に囲まれた贅沢な洋館に着いた。玄関を入ったとたん、分厚い敷物の上に寝ていた足の太い黒犬が幸太に吠えついた。金の首輪を光らせて生意気だ。幸太は犬の首っ玉をぎゅうとつかんで宙吊りにしてやった。犬は面食らって暴れたが、幸太がびくともしないと知ると耳としっぽを垂れて情けない声を上げた。

洋館の女主人は桃色の洋服に揃いの小さな帽子を頭に載せた化粧の濃い中年女だった。内地の女性は化粧はおろか、服といえば白ブラウスに絣のもんぺ姿だ。幸太は目を丸くした。女主人は満足そうに、伊勢町で洋品店を営んでいるのと愛想良く笑った。
「大連の銀座といえばいいかしら」
「わしは銀座やこ、知らん」
女主人は一瞬憐れみの目で幸太を見たが、口元を手で隠して如才なく「おほほ」と笑った。その足下に先ほどの黒犬がすりよって鼻を鳴らした。女主人は案外と手荒く犬の鼻面をはたいた。
「黒毛でしょ、毛が着いてねぇ…、失敗だったわ。」犬をにらんで嘆息した。しょぼくれた犬は背を丸めて出ていく。女は桃色のスカートが汚れていないことを確かめて満足げな笑みを浮べた。

大きな暖炉の客間で、小男と女主人が親しげにしゃべりはじめる頃、幸太は軽い吐き気を感じた。部屋に満ちた香水の匂いにあたっただろうか。大きなドアのような窓からこっそり庭に出て大きく息を吸った。山が近い。乾いたそよ風にアカシアがざわめく。いっそ山で野宿でもした方が気が楽だ。こんなお上品なところで暮らせるもんか。

その時、足もとに暖かな気配を感じた。見るとさっきの黒犬だ。幸太の足下に座って親しげに幸太を見上げ、しっぽを振っている。
「おまえも山に行きたいんか?」
犬の目がキラリと輝いた。

満人の阿姨(アーイ お手伝いさん)に
「そのへんを歩いてきます」
と言い置いて、幸太は犬と一緒に道へ出た。幸太が走ると犬がじゃれつく。幸太と犬は追いつ追われつ、子供が鬼ごっこをするように斜面のアカシアをぬって駆けまわった。黒犬はこの散歩が気に入ったらしい。幸太が行くところへはどこでもついてくるようになった。幸太は動物好きではなかったが、懐かれるとつい手をかけた。犬はますます幸太に懐いた。

とても暮らせないと思った家だったが案外と居心地が良かったのはこの黒犬のおかげだったかもしれない。さらにもうひとつ良いのは、この女主人がきれい好きで風呂好きだったことだ。幸太も風呂が好きだった。

時たま、仕事で旅順へ行った。幸太は黒犬をトラックの助手席に乗せて行き、帰り道、老虎灘の漁村辺りで犬に水遊びをさせた。浜で大はしゃぎする黒犬を見るうち幸太も泳ぎたくなる。白ふんどし一丁で幸太が泳ぎ出すと、黒犬もおそるおそる海に入り犬掻きでついてくる。幸太の泳ぎは音をたてずに川を渡るための古式泳法で、速度はないが体力の消耗が少ない。長く泳いでも平気だ。ところが黒犬は泳ぐのは速いが、途中で疲れてしまい放っておくと沈みかける。結局、幸太が犬の首を抱えて岸まで連れ帰らねばならない。そんなことが何度かあったが、犬はやっぱり幸太の後を、そこが陸だろうと海だろうとかまわずについてくるのだった。

7月の終り、幸太は初めての遠出の仕事を言い付かった。半月近くもかかって洋館へ戻った頃はもう盆の入りだ。黒犬がさびしがっているだろう。あいつめ、このところ鼻水を垂らしていたからな。あの女主人に冷たくされ、しょぼくれておれを待ってるに違いない。洋館に戻る道々、幸太は自分が駆け足なのに気づいて苦笑した。さびしかったのは犬も自分も同じ、いや、この駆け足はどうだ?黒犬に会いたくてたまらないのは自分の方だ。

「それが、熱を出してね。ええ、鼻水も目やにもひどくて…、毛が抜けて汚くて、最後は用も足せなくってね、大変だったのよ」女主人は雑誌から目を上げて幸太に愛想良く微笑んだ。女主人がひざに抱いた毛つやの良い灰色の猫が横目で幸太を見てそっぽをむいた。
「もう犬は止しだわ、今度は猫にしたのよ。どう?良いでしょう」
「犬の墓は?」
「ほら、病気だったから死骸も汚くってね、人に頼んで処分してもらったわ」

その晩、幸太は湯に浸かって立ち昇る湯気をぼんやりと見ていた。湯気はいつのまにか生き物の形をして跳ねながら幸太の周りを何度も回り、幸太にじゃれついてくる。それがどうしても、はしゃいで駆けまわるあの黒犬に見えた。わき腹のあたりに黒犬の体温と重みを感じてはっと目が覚めた。火の消えた仕舞い風呂でうとうとしていたのだ。それにしても…、と幸太はわき腹をなでた。これは黒犬を抱えて海岸に泳ぎついたときの感触ではないか。濡れた毛並み、暖かい吐息。幸太は小さく息を吐いた。

翌朝、幸太は洋館を後にして朝日の道をアテもなく歩いていた。

「知っとるか?満人はな、わしらが湯に浸かるのを汚いと言うんじゃ。尻まで浸かった湯で顔も洗う、と言うてな。」後々、風呂嫌いのわけを人に聞かれると幸太は決まってそう答え、なぜか小さく息を吐いた。



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2006年08月19日

彼の岸異聞 ( 3.行方知れず )

「すんません。わし、勝手なことして」
夕刻、仕事を済ませて事務所に顔を出した幸太は小男に頭を下げた。渡満直後、右も左も分からぬ大連で、仕事と住処をこの男の世話になった。その住処−南山麓の洋館−から幸太は家出したのだ。
「幸太、寝床が決まったら連絡してや」
「え?」
「仕事は続けてもらうわ。南山麓の奥さんの送迎も、今まで通りな」
小男は紫煙を吐いて渋面を崩し、幸太の汗じみたシャツの背を軽く叩いた。
「やれやれ、あんたの運転がえらいお気に入りや。車酔いしにくい言わはってな。あとこれ、奥さんから」
小男は洋車の運転席から五合枡ほどの重く暖かい袋を投げてよこした。


「おっちゃん、おれ、もう二三日ここに泊まらして」
おっちゃんと呼ばれた男は、整備中のトラックの下から首だけ出して幸太を見た。薄茶色の作業服の襟も揃いの帽子も土埃と機械油で汚れているが、服のボタンは全部留め帽子を律儀に真直ぐかぶっている。
「ええか、おまえ。ここは車庫じゃ、車庫。どこぞにあてはないんか」
「まぁ、どねぇかなるわ。トラックの荷台で寝るのにも慣れたし」
「ええ加減にせぇ。ここらぁ内地と違うんで、9月にゃぁ寒ぅなるんじゃ」
「うわ、何じゃこれ!」袋をあけて幸太は思わず声をあげた。
「おうおう、包子じゃな。ほう、いかいことぉ」
「饅頭に似とるけど、匂いが…」小豆餡の甘い匂いを裏切られ幸太は顔をしかめた。一緒に入っていた油紙の小さな包みからもれた液体が包子を黒く汚している。
「うまそうじゃのう」不自由な右足をかばいトラックのタイヤにすがっておっちゃんが立ち上がる。幸太が差し出した手は黙って払いのけ、おっちゃんは一人で立ち上がった。
「この黒いのは何」
「黒酢じゃ、包子につけて食うんじゃ、食うたことないんか」
「ない、おっちゃん食うて見してん、頼む」
「頼まんでもええ。はらぺこじゃけぇ全部でも食うちゃるぞ。へへ、わしも伊達に22年もおりゃあせん、満州(ここ)にな。」
機械油で汚れた手袋を脱ぎ、腰の手ぬぐいで額の汗を丁寧に拭いたおっちゃんは、幸太が袋ごと差し出した包子をひとつ取って二つに割った。
「それ、豚肉じゃ。野菜と混ぜて…、これが餡」
幸太に見せると欠けた前歯で右手の包子にかぶりついた。が、そのとたん眉根に皺を寄せ手の甲で頬を押さえた。
「うっ」
頬を押さえながらも目を閉じて噛んでいる。
「おっちゃん?」
目を閉じたまま、右手薬指と小指だけを軽く振るのは、心配無用の合図か、それとも邪魔するなという意味か。ようやく、口の中のものを名残惜しそうに飲み込むと、おっちゃんは左手の包子を幸太に差出した。
「うまいぞ、ほっぺたが落ちるわい。」

「わし、こんなうまいもん食うたことない」食い始めると幸太は手が止まらなかった。
「前は、道端の屋台で売りょうたんじゃがなぁ。なんぼにも、去年の不作がこたえとるわい。見てみぃ、肉なぞ配給がなかろうが」
返事の代わりに大きくうなづきながら幸太はおっちゃんに包子を差し出す。おっちゃんは遠慮したが、さらに勧めると丁寧に手を合わせてひとつだけとった。
「このごろは、良うないのぅ。満人なんかは普段の飯にも事欠くらしい。もともと一日二食じゃが、どうも一食は水だけじゃ」
最後の包子に伸ばした幸太の手がぴたりと止まる。

これをトヨに食わせてやりたい。
末妹のトヨは内地の小学四年生だ。握り飯はおろか、芋入りの粥さえ弁当に持たせてやれない日があって、昼にすきっ腹のまま校庭で遊んでいる。幸太が内地にいた頃、他家の手伝い仕事で駄賃のほかに芋や柿をもらったら、自分で食わずにこのトヨにやることに決めていた。
「ありがとう、おにいちゃん。あたし、うれしい!うれしい!」
記憶の中のトヨは芋を持って跳ね回る。そのトヨにこの包子を渡す。トヨはどんな顔をするだろう。饅頭なんか久しぶりだ。しかも中に肉が入った中国風の饅頭だ。

「まぁ、ゆっくり食えや。わしゃ帰るけえ。おまえ、カンヌキをかけて寝るんで」
食うのをやめてうなだれた幸太にささやくと、おっちゃんはびっこを引きながら車庫を出ていった。

最後の包子が食えないまま日が暮れた。車庫にこもった包子の匂いにまたトヨの顔が浮かぶ。

満州の給料は内地よりも良い。けれどその分使う。食い物も配給品だけでは足りないから闇市で買う。闇の値段は配給の10倍以上だ。兄と叔父に返す金が貯まるのはいつだろう。内地に帰れるのはいつになるだろう。

母や兄の顔が、友達が、故郷の野山が暗闇に浮かぶ。思い出したくもないしがらみや貧乏暮らしさえ暖かい色合いを帯びて浮かぶ。見送りもなく一人汽車に乗った。貨客船の狭苦しい下等客室で隣合せた娘は、満州では白飯が食えると笑った。その白い顔が包子に重なりトヨと重なって歪みながら暗闇に消えていった。

翌朝、空腹で目覚めた幸太は袋を探った。袋は空だった。
「おっちゃん、包子がない」
早朝、車庫を開けにきたおっちゃんの顔を見るなり幸太は訴えたが、おっちゃんが包子の行方を知るはずもない。

その後、幸太は仕事にかまけて行方知れずの包子のことをもう思い出さなかった。



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2006年09月07日

彼の岸異聞 (4.病人運び )

満州は広い。いったん町を出ると海原のような原野だ。トラックは海に投げ出された一隻の小船に等しい。

幸太は地図を持たない。却って勘が狂う、と地図があっても見ないでトラックを走らせる。目先の道を探すと迷う。迷えば死ぬ。広大な原野を孤走してまずそう知った。道よりも太陽の向きと地形。方角は記憶と勘、最後は運が頼りだ。

8月の終わり頃、風には秋を感じるが原野はまだ緑に覆われている。澄みわたって高い空に遠山の稜線がくっきりと見える。普通、景色は後ろへ後ろへと流れていくが、その山は半日トラックを走らせても全く姿を変えない。月や太陽と同じで近く見えるが実は彼方にあるのだ。

その広大な土地にぽつんぽつんと日本人移民の村が点在している。入植しているのは若い夫婦たちだが、中には十代の子供ばかりの義勇団もあるという。想像以上に厳しい暮らしに体や心を病んで倒れたり、寂しさに耐え切れずに逃げ出して野垂れ死んだり、痛々しい。内地じゃええことばっかり言うけど、こっちに来りゃそりゃぁいろいろあるらしいで、運転手仲間から聞いた話を思い出しながら幸太は荷を運ぶ。村々から新京に向かうわだち沿いの草むらから鳥が飛び立って、時折警告のように鋭く鳴いた。

ある夕方、土壁の崩れた廃村を通りかかった。手を振る人影が見えてもスピードは緩めない。(めったな所じゃトラックを停めたが最後、匪賊に囲まれて殺されるんよ)地元の運転手から脅かされていたし、もとより荷が重くて道がはかどってない。止まっている場合ではない。けれど幸太はブレーキを踏んだ。崩れた塀のかげから日本語が聞こえたのだ。

「足を止めて申し訳ねぇ」
傾いて尚強烈な晩夏の日を背に人影が五つ近づいてきた。なぜか突然、背中に汗がにじんだ。どこかおかしい。こんな荒れた村に人が住めるもんか。いや、怖気づいてはいかん。動けないでいるうち一番背の高い影が運転席の脇で丁寧にお辞儀をした。

「病人があって困っとるだ」
声は少年のようだ。病院に連れて行く手立てもなく悪くなる一方で途方にくれていた。勝手なお願いだが、病院まで運んではもらえまいか。通りすがりで迷惑をかける。五つの影は大地にしみこむ赤い夕日を背に深々と頭を下げた。

返事をしかねて黙っていた幸太の腹が鳴った。頭をかいて笑うと五人もつられて笑った。腹の力が抜けたような声だ。例の背高が
「ほんとうに申し訳ねぇだ。水も食い物もねぇのずら」
と謝った。そういえば、日が落ちて冷たい風が吹き始めたのに、皆ズボンしかはいてない。やせた腰からずれ落ちそうなズボンは泥で汚れほころびが目立つ。夕食も無いのか。

義勇団くずれ、そんな言葉が浮かぶ。内地では大東亜省が音頭をとって「満州で大地主」と国を挙げての大宣伝。だが実際は軍隊式の厳しい訓練の上にきつい農作業。落伍者もでる。さらに幸太は南山麓の奥さんの暮らしを思い、胸が痛んだ。同じ日本人だというのにこの境遇の落差はどうだ。
「分かった、荷台に乗せんちゃい」

いっそ皆で新京へ行ったらと勧めたが、自分達は行けないと五人は悲しげに口をそろえた。うす暗がりで病人を大豆袋の上に寝かせ、その上に幸太はシートを張り直した。病人は案外明るい声で布団の中から幸太に礼を言った。

幸太は残照の限りトラックを走らせた。アクセルを踏む足に力が入る。誰かが一緒にいると思うだけで心が弾む。こんな気持ちは初めてだった。

トラックを停めた時はすっかり暗くなっていた。シートを外し、手探りで病人の隣に寝転んだ。月のない夜で、広大な暗黒に大小の星が輝いていた。
「夜明け前にはまた走るけん、午前中にゃ町の病院に着くで。」
「夢のようずら。おらはあそこで終えるのだと覚悟を決めたとこだっただ」
「はよう治るとええなぁ」
「うん、治しちゃやく故郷(くに)へ帰りたい。」
幸太は運転席に戻って寝たが、明け方エンジンをかける前に病人にひと声掛けてシートを直した。

早朝、診療所で事情を話すと中年の看護婦が怪訝そうに幸太をにらんだ。
「はて、この辺にそんな村あったかね」
あったも何も、幸太はその村に立ち寄ったのだ。けれど新京に来て日が浅い幸太はろくな説明ができない。とにかく病人がいるのだ。
「ちょっと、あんた!」幸太の返事を待たずに荷台に上った看護婦が怒気を含んで叫んだ。「これ死体でしょうが!」
「なにっ!、死体なもんか。声を掛けたら返事をするし…」
「自分で見てごらん」
幸太が荷台に上がると看護婦が布団をめくった。病人は頭蓋骨の継ぎ目が見えるほど痩せ皮膚はまだらに変色している。目の辺りは黒く窪みハエがびっしりたかっている。ひどい匂いだ。
「こんな仏さん、よう一人で載せたねぇ。」
その骨ばった手に5束の遺髪が見えた。幸太は目を見張ってしゃがみこんだ。看護婦が人を呼び、死体が運ばれていくのを呆然と見送った。

それでも、声を掛けたら返事があった、夜には話もした。確かだ、確かだ。倉庫で会った運転手仲間たちは黙ってうなづいたが、やがて互いに顔を見合わせ、原野の孤独はこの世にないものを人に見せたり聞かせたりするのだとささやきあい苦々しく笑った。



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2006年10月04日

彼の岸異聞(5.王さん)

新京の貸間で隣室だった王さんは、定職がなくて昼でも暇そうにぶらぶらしていた。年は幸太の兄くらい。小柄な男で幸太より年下に見える。この春にお湯屋の屋台をたたんで今は何をしているのかわからない。お湯屋は大きなヤカンの屋台で熱い白湯を飲ませる、内地にはない商売だ。

西日しかあたらない王さんの部屋の前を幸太が自室へ戻ろうと通るたび、王さんは上手な日本語で幸太に話しかける。北京語や満語もわかるらしい。話好きでとにかく愛想が良い。幸太がトラックの運転手だと知ると目を輝かせ、しきりに羨ましがった。王さんはここで生まれ育ってどこにも行ったことがない。知らない土地にあこがれている。一度でいいからトラックに乗せてくれとせがむ。ダメダメ、遊びじゃない、幸太が断ると口を尖らせて肩をすくめた。

その後、王さんは酒をもってちょいちょい幸太の部屋にやって来るようになった。

金もないのに酒など持ってこなくていい、初めのうち幸太は断った。けれど王さんは「自分はこの辺りじゃ顔が利くのだから酒の工面くらいわけはない」とやってくる。知り合いのない新京で王さんはいい話し相手だ。結局二人で酒を飲み、とりとめのない話をした。

酒に酔った王さんは必ず自分の生立ちと、お湯屋の屋台の顛末を話す。けれどお湯を沸かす燃料の相場を尋ねると口ごもる。どうやら燃料は買わずに済ませていたらしい、怪しげなものだ。それでもちっとも儲からないので嫌になって、しまいには売ってはならぬ物まで売った。けれど取締りが厳しくてじきに目をつけられた。商売をやめたのはなかなか潮時だったよ、とにやり笑う。

売ってはならぬものが何か王さんは言わない。アヘンか何かだろうと見当をつけた幸太が顔をしかめたのを見て王さんはまたにやりと笑った。
「冗談、冗談。でもね、貧乏人は何でもする、正味、仕事選んでたら食えない」
「どうせ、ずるいことしよったんじゃろ」
「まぁまぁ、ずるいくらいでなきゃ、バカみるわ」
王さんはそこで少し声をひそめた。
「大連で砂糖を運んだ?」
「うん」
「私なら一握りとって売る、いい金になる」
「砂糖が?」
「幸太、本当に砂糖と思う?」
「何だと?」
「あっはは、その小男は幸太(ひと)の使い方がうまいわ」
幸太が目を丸くするのを見て、王さんは愉快そうに声を上げて笑った。
そのときドンドンと乱暴な音がした。隣の部屋だ。王さんの部屋の戸を誰かが叩いている。
「何事じゃ?」
幸太が見に出ようとするのを王さんは青い顔をして押しとどめた。
「だめだめ、夜更けにあんな音、ロクな奴じゃない。関わるな、幸太」

音が止んで足音が遠のくと、王さんは急に神妙な顔になった。
「明日、吉林の方へ行く便がない?途中まででもいい、どうか乗せて」
「どうした、王さん。そんな顔して、ガラでもない」
「実は吉林に兄がいる。長患いでもう危ない。今のうちにひと目会いたい」
ちょうど翌日、吉林に行く便があった。
「よし、わかった」幸太が引き受けると王さんは平伏して喜んだ。


翌日の昼前には無事吉林に着いた。さすがの王さんも心配のせいか口数が少なく静かな道中だった。兄への土産だという大きな荷物を大切に抱えた王さんは吉林の表通りの人ごみに消えてすぐ見えなくなった。


その夜、新京の部屋に戻ると、誰もいないはずの王さんの部屋に灯りがついて人影がみえた。不審に思って覗くと目つきの鋭い小柄な満人と目が合った。途端に満人は幸太の胸倉をつかんだ。
「おまえか、逃がしたの」
「逃がす?何を言うか?王さんは兄さんの見舞いに行ったんじゃ」
「兄?わたし、兄!」
「え?」
「私、兄!」
その間、もうひとりの男が王さんの荷物をかき回し、箱という箱をひっくり返している。何を探しているのだろう。幸太は王さんがやけに大きな荷物を抱えていたのをふと思い出した。あの荷物は何だ?

結局、男は何も見つけられず、苛立ちまぎれに腰掛をつかむとレンガ壁に向かって力任せに投げつけた。壊れ砕けた腰掛はバラバラの木片になって埃っぽい土間に散乱した。
「どこ?」
「何が?」
「兄弟どこ?」
「おまえ本当に王の兄さんか?」
目つきの鋭い男は眉をしかめて口を尖らせた。その顔は王さんにそっくりだ。

騒ぎを聞きつけて集まった近所の者の中から腰の曲がった満人のばあさんが走り出て部屋の酒瓶を指して叫んだ。なりふり構わず転げまわって大声で泣き、ついには幸太の腰に取りすがって何か訴えた。
「酒代、払え、だ」目つきの鋭い男が下手な日本語で通訳した。どうやら王さんは幸太の使いで来たと言っては酒を買っていたらしい。全部幸太のツケだという。

払う気はなかったが、自分も酒を飲んでいるので気の毒なのと、腰の曲がったばあさんが泣き続けるのが哀れだ。放っておくといつまでも泣く。幸太はうんざりした。仕方なく金を出した途端、ばあさんはぴたり泣き止んで札をひったくり、唖然としている幸太を尻目に、しゃんと腰を伸ばしてすたすたと歩き去った。

幸太の顔を見て男は笑った。人の顔を見て笑うところも王さんにそっくりだ。こいつは王さんの兄に違いない。幸太は男に王さんは吉林だと教えてしまった。



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