2007年12月06日

バイト明けの朝、次の日の夕暮れ

1.

 缶は広い部屋の天井付近から次々と現れ、壁沿いに這ったレールをループして作業台まで落ちてきて溜まる。彼は作業台に立ち、溜まった缶を段ボール箱に詰め続けている。
 彼は思う。缶の流れ落ちる音はこの広い部屋にさぞ騒々しく響いていることだろう。と、しかし彼には聞こえない。強力な耳栓が音を完璧に遮断している。
 この広い部屋には彼の立っている作業台の他4台の作業台があり、その内2台は昼間しか使用しない。夜間は彼を含めた3人のバイトがそれぞれの作業台で、止めどなく流れ落ちては溜まる缶を箱詰めしている。
 広い部屋の3つの作業台。彼はずっと一緒のバイト仲間とまだ一度も言葉を交わしたことがない。ひとりは若く、短く刈り込んだ茶色な髪を帽子で覆い、“いつ止めてもいいんだぜ”という姿勢を表現して作業に取り組んでいる。もうひとりは随分と年長で、終始神経質そうな目で溜まっていく缶を見詰め、一心に箱に詰める。そして、彼。
 彼は作業を続けながら、時々天井を仰いで見る。作業台から洩れる蛍光灯の光は天井に届くまでに広い暗闇に吸収されてしまう。彼は黙々と缶を詰め続ける。

彼は会社を辞めた。入社3年目の退職。親会社100%出資の中企業。それなりの仕事とそれなりの人間関係。それでいいと思っていた。
 しかし、ある日、後輩を殴った。
「われわれはこんなもんすよ。ねっ。課長」いつもの居酒屋で上司に向けた後輩の一言。
 反射的に殴っていた。確かに彼も酔っていた。
 だけど意識ははっきりとしていた。

 明け方、天井付近の明かり取りから朝の弱い光が段々と差し込み、作業台から洩れる蛍光灯の弱い光と混ざり合い始めると、段々と広い部屋はその輪郭を浮かび上がらせる。丁度その頃、缶の流れが止まりバイト係の社員が現れる。「お疲れ」バイト係はそれだけ言い、そのまままたどこかへ消えてしまう。彼はバイト係に頭だけ下げ、作業台の回りの片付けをする。片付けを終え更衣室に向かう頃、部屋はすっかりその全容を現している。
 早朝、工場の門を出る。見上げる空は何処までも青い。彼は深呼吸を一回行う。

「辞めるって、お前どうするつもりなの。式までもう何ヶ月もないんだろ」辞表を出すと上司はそう言った。
「結婚は少し先に延ばします」と彼。
「彼女は何て言ってる」
「納得してます」そうとだけ彼は答えた。

 部屋に帰ると彼はカーテンを開き窓を全開にする。部屋に朝の光が溢れ込むと、誰もいない夜の余韻はさっとどこかへ消えてしまう。それから彼はシャワーを浴びてビールのレギュラー缶を一缶飲んでベッドに潜り込む。そして、目が覚めると夕暮れ。
 しかし、その日、部屋には彼女がいた。きれいに片づけられた部屋。カーテンは既に開き、部屋は朝の光で溢れていた。
「おかえり」彼女は彼を見て微笑む。
「会社は」と彼。
「休み」彼の意外そうな顔を見て彼女はもう一度微笑むとそう言った。
「そう」
「シャワー浴びちゃって、ごはんの用意しとくから」

 シャワーから上がるとテーブルには朝食が並んでいた。
 しかし彼はテーブルには着かずそのまま彼女をベッドへ誘い全裸にする。
 テーブルの上で朝食の湯気が朝の光をキラキラと反射させている。

2.

 目を覚ますと夕暮れ前だった。彼はベッドに腰掛け取り合えず煙草に火を点ける。片づいた部屋をゆっくり見回す。彼女はいなかった。テーブルの上はきれいに片付きその隅に招待状のようなものが置かれていた。彼はそれを手に取る。

         記

  日時 平成○年○月○日 日曜日
        挙 式 午前 十時
        披露宴 午前十一時
  会場 ○○○○ホテル ○○の間

 招待状のようなものは招待状だった。元同僚の結婚式。招待状をテーブルに戻し、時計を見る。銭湯が開くのには少し早いが、早過ぎるといった時間でもない。彼は洗濯物の詰まった袋を持って部屋を出た。

 アパートから駅へ住宅地を抜け四車線道路を渡る。
駅前まで続く商店街。途中で商店街を折れるとまた住宅地となる。細く入り組んだ道。一角の銭湯。銭湯横のコインランドリー。中に人影はない。扉を引く。すると乾燥機のドラムの回る音が響き出した。
 空いている洗濯機を探し洗い物を放り込みコインを入れる。
 備付けの椅子に腰掛け、隅に積まれた雑誌から適当に一冊選び、手に取る。
 週刊誌のグラビアページをパラパラと捲る。
 数ページ捲った所で、彼の手は止まった。
『一度お願いしたいOL』
 真っ直ぐ前方に投げ出された長い脚、ぴったりと揃えられた両脚の交わりで小さく盛り上がった陰毛、腰から贅肉のない腹。過不足のない胸は、両腕を後方について身体を支えているためか、実際以上に強調されている。背けられた顔の僅かに覗く口元。
 紛れもなく彼女だった。

3.

企業会計原則の第一、一般原則の六はこうだ。
企業会計は、企業の財政に不利な影響を及ぼす可能性がある場合には、これに備えて適当に健全な会計処理をしなければならない。
保守主義の原則と呼ばれるものだ。

 会社を辞めて直ぐ彼は勉強を始めた。公認会計士。高難易度の専門的で実際的な国家資格。この半年、週の前半を工場でのバイトにあて、後半は会計学校に通った。資格取得まで最短2年。監査法人に就職して3年間の業務補助または実務従事。その後最終試験をパスすれば公認会計士として登録出来る。道のりは長い。しかしそれだけの価値はある。

 銭湯には誰もいないようだった。彼は番台に料金を置くと、使い捨ての石鹸、シャンプー、リンス、それから安全剃刀を買った。脱衣箱の列の中から適当な位置の脱衣箱を選び彼は着ている物を脱いだ順に入れていく。
 トランクス一枚になった時、携帯電話が鳴り始めた。電話は招待状の元同僚からだった。彼は少しのあいだ携帯電話の画面を眺め、通話ボタンを押す。
「久しぶり。このくらいの時間じゃないとつながらないって彼女から聞いたから」と元同僚。
「久しぶり」と彼。
「招待状届いたでしょ」
「届いてた」
「どう?」
「行けないって伝えてもらったつもりだったけど」
「彼女からはそう聞いたけど、やっぱりふたり揃って来て貰いたくて。我々は同期なんだし」
「元はね」
「元だけど、同期でしょ。二次会は4人でよく行ったあの店。憶えてるでしょ」
「社内恋愛で結ばれるふたりの結婚式に会社を辞めた人間が行けると思う」
「来れない?」
「普通、行かない」
「彼女はふたりで来たいふうだけど」
「・・・・・・」
「どう?」と元同僚。
「考えてみるよ」
「いい返事まってるよ。まだ仕事中だらか。じゃあまた」
「ああ」電話は切られた。彼は携帯を閉じると脱衣箱に置いた。

 一番風呂かと思って入った浴場には先客がいた。湯気の立ちこめた浴場の湯船の縁に老人がひとり腰掛けていた。彼が浴場に入ると老人は湯気の向こうで彼に少し顔を向けた。
 彼は身体を流し湯船に浸かる。両手で湯をすくい顔を拭う。浴場に濃く漂う白い湯気。冷えた雫が天井から彼の頭に落ちる。天井付近の全開にされた換気窓。換気窓から湯気は外へ外へと流れ出ている。彼はもう一度顔を拭うとゆっくりと息を吐き出した。

 銭湯を出るとコインランドリーに寄って洗濯物を乾燥機から袋に移す。
それから、簡易テーブルの上で週刊誌を開いた。グラビアの彼女を眺める。やはり、彼女の身体だった。彼はページを閉じ、週刊誌を元の場所に戻す。

 コインランドリーを出ると、夕暮れ時の住宅地に立ちこめる夕餉の雰囲気の中、彼は、ゆっくりと、部屋へ歩いた。

4.

 部屋に帰りドアを開くと、片付いた1DKは夕暮れに沈んでいた。
 所定の位置に洗濯物の袋を置くと、一瞬、そこに夕陽の微塵な輝きが胞子となって舞い上がった。
 部屋中。あらゆるものが微塵な胞子を纏い柔らかに膨らんでいた。
 ゆっくりとベッドに腰を下ろす。彼の回りで夕陽の胞子が舞い上る。
 テレビとレコーダー、パソコンとプリンター、本棚と参考書、テーブルと招待状。
沈黙していた。静寂があらゆるモノとモノとの関係を分断し続けていた。
 彼は立ち上がりベランダに出る。

 夕暮れの世界。

 そこで彼は彼女を発見する。アパートまでの住宅地の道を彼女はこちらに向かって真っ直ぐに歩いてくる。彼女はベランダの彼に気付くと立ち止まり手を振る。
 彼は部屋を振り返る。
 彼はむかし読んだこんな言葉を思い出した。

黄昏
沈んでゆく陽かりのなかで
何もかも
誰も彼も
静かに輝き
そして、静かに消えてゆく

5.

 彼はベランダの手摺りにもたれかかると彼女に手を振った。



 ■■■ 作者から一言 ■■■
獅子座でA型、そして卯年。

 ■■■ プロフィール ■■■
3作目。次はどうする。
考えよう。
posted by 村松恒平 at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | その日とそのほかの日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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