「あいたた」
左肩の痛みに幸太は体をひねった。さっき腰掛を粉々にした大男が背後から幸太の左肩をつかみ右腕を幸太の首に回して喉を抑えていた。王の兄さんが大男をなだめるように何か言った。大男は土間につばを吐いてしぶしぶと腕を緩めたが、幸太を放しはしなかった。
「私は頌世。弟、頌張が大切なもの持って逃げた。私たちは取り返す。」
「兄さんへの土産じゃと言うとったぞ」
「わたし、兄さん。吉林は兄さんいない」
幸太は王の兄さんだという頌世を見つめた。落ち着いて見ると王さんとこの頌世は良く似ている。けれど一見似ていると分からないくらい雰囲気が違う。目に輝きがあって賢そうなのは二人とも同じだが、王さんの目には小ずるい光があり多弁で落ち着きがなかった。幸太は頌世の視線をとらえ目を探った。頌世は何も言わずに目で話すようなところがある。
今も黙ったまま不思議そうに幸太を見つめ返すだけだ。何を不思議がっているのだろう。満人の婆さんなんかにあっさり金を払ってやる割には幸太が貧乏な身なりをしているのが不思議なのかもしれない。それとも満人街に住む酔狂な日本人にあきれているのか。まさか日本人が珍しいわけでもなかろう。幸太は思わず首をかしげた。頌世は少し笑ったように見えた。が、その笑みは一瞬で消えた。両側に貸間が並ぶ通路の入り口辺りでののしり声だ。いつも通路で寝ている酔っ払いの爺さんを誰かが踏んづけたようだ。ここの住人なら爺さんのことは皆知っている。よそ者だ。低い声で頌世は大男に何事かささやいた。
二人の満人は幸太をひっぱったまま、並んだ貸間の一番端にある八卦見の親父の屋台を踏み台にして裏手の商家の塀に上り、屋根に上って息を潜めた。貸間は低い平屋で上るのはわけない。しらみのわいたアンペラは屋根に干すといい、日当たりが良いのは屋根だけだから。王さんに教えてもらって幸太も上ったことがある。
ドタドタと足音がして、誰かが王さんの部屋の戸を蹴破った。振動が安普請の屋根まで伝わった。幸太は大男に口を塞がれた。しばらく乱暴に物をひっくり返したり転がすような音がしたが、じきに物や壁を叩く苛立たしげな音に変わった。荒っぽい声がして、すぐさま隣の部屋の戸が破られた。幸太の部屋だ。幸太は屋根から下をのぞきこもうとして、口を塞いでいた大男に首を絞められかけた。それでも数人の男が出てきて口々に何か言いあっているのが見える。一人がかざした右手の物がキラリと光った。幸太の背中に冷たい汗がにじんだ。あれはずいぶん手入れの良い刃物だ。
「命、惜しいなら一緒に来る。ここ残れば…」
しばらく経ってから身を起こした頌世は自分の白い細首に当てたひとさし指を真横に引いて見せた。脅しではない。王さんは何かまずいことに首を突っ込んで、自分も王さんの仲間だと思われているようだ。さっきの男たちは、誤解だと話して通じる相手には見えなかった。しかも、知り合いのない新京では幸太が相談できる人はいない。
「王さんが持って逃げたのは何だ?」
頌世は口を開きかけたが考え直したように口をつぐんだ。幸太を見つめる目だけは何か言いたげだった。幸太は途方にくれた。
「勝手に車出して…、こんなことしちゃもう大連に帰れん。」
吉林に向かってアクセルを踏みながら幸太はつぶやいた。夜逃げ同然に新京の貸間を捨て、この期に及んで気づいたが、自分は日本人だ。この大男を振り切って警察に駆け込めばなんとかなったかもしれない。いざとなれば内地に帰ればいい。あの物騒なやつらもまさか日本まで追っては来まい。うかうか頌世の言うことを聞いて王さん探しに行くなんてバカげている。幸太は唇をかんだ。
「帰りたいか?」
大男と幸太の間に座っていた頌世が幸太を見上げた。関東軍でも憲兵でもいい、深夜の道を飛ばすトラックを見咎めて停めてくれないだろうか、そしてこいつらを突き出しおれは内地へ帰る…、そんなことを考えていた幸太は返事に詰まった。
「なぜここ、来たか?」
頌世は重ねて聞いてきた。
「ここの人にならない。ここの土にならない。すぐ帰る」
頌世の表情と声は穏やかだった。けれど生真面目に幸太を見つめる目は真剣に答えを待っていた。幸太は前方を見るふりをして視線を逸らした。へッドライトは小さく丸く地面を切り取った。
「なぜここ、来たか?」
幸太は貧乏百姓の三男坊だ。大人になったら家を出る。けれど分与される田畑はなく、近くに仕事口もない。なら兵隊になるのか。いや、兵隊はいやだ。すると益々居所がない。自分は満州に仕事と将来を求めたと同時に、居所のない故郷、みじめな境遇から逃げだしてきた。そうだ、これを認めたら自分があんまり惨めな気がして目を逸らしていた。おれは生まれ育った故郷が好きでこんなに懐かしく思い出すのに故郷のほうは頑なにおれを拒否するのだ。
それなのにまたここで内地へ逃げ帰ろうというのか?居所も仕事も将来もない、あの暮らしに戻るのか。
道が土から舗装に変わった。
「もうすぐ吉林じゃ。」
幸太はつぶやいた。とうとう関東軍も憲兵も出てこなかった。それが啓示のように思えた。
「わしは帰らんよ。ここ以外にもう行く所はない。」
遠くに浮かぶ小さな明かりは吉林の市街だ。懐かしい故郷、大連、新京にはもう帰らない。進むだけだ。
雑草を抜いて違う場所へ捨てても露や雨にぬれたらそこの土にまた根づく。幸太は子供の頃によく手伝わされた段々畑の草取りを思い出した。あの雑草はおれだ。おれにはこの丈夫な体と知恵がある。運があればどこへ行ってもなんとか根を張るだろう。
■■■ 作者から一言 ■■■
彼の岸異聞を読んでくださってありがとうございます。幸太の冒険はこれから…というところ。でも、この続きを書くのはまだ先になりそうです。
というのも、じつは11月から違うお話を書き始めました。今度は10歳くらいの不思議な力を秘めた女の子が主人公です。この女の子と一緒に冒険の旅に出てきます。
読んでくださる方が楽しめる作品を書きたい。これからも書き続けていきますので、機会があったらまた読んでやってくださいね☆
■■■ プロフィール ■■■
辰年・獅子座生まれ。犬猫とゴハンが大好きな2児の母。ダイエットまだがんばってます。
2006年11月09日
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