2006年10月04日

彼の岸異聞(5.王さん)

新京の貸間で隣室だった王さんは、定職がなくて昼でも暇そうにぶらぶらしていた。年は幸太の兄くらい。小柄な男で幸太より年下に見える。この春にお湯屋の屋台をたたんで今は何をしているのかわからない。お湯屋は大きなヤカンの屋台で熱い白湯を飲ませる、内地にはない商売だ。

西日しかあたらない王さんの部屋の前を幸太が自室へ戻ろうと通るたび、王さんは上手な日本語で幸太に話しかける。北京語や満語もわかるらしい。話好きでとにかく愛想が良い。幸太がトラックの運転手だと知ると目を輝かせ、しきりに羨ましがった。王さんはここで生まれ育ってどこにも行ったことがない。知らない土地にあこがれている。一度でいいからトラックに乗せてくれとせがむ。ダメダメ、遊びじゃない、幸太が断ると口を尖らせて肩をすくめた。

その後、王さんは酒をもってちょいちょい幸太の部屋にやって来るようになった。

金もないのに酒など持ってこなくていい、初めのうち幸太は断った。けれど王さんは「自分はこの辺りじゃ顔が利くのだから酒の工面くらいわけはない」とやってくる。知り合いのない新京で王さんはいい話し相手だ。結局二人で酒を飲み、とりとめのない話をした。

酒に酔った王さんは必ず自分の生立ちと、お湯屋の屋台の顛末を話す。けれどお湯を沸かす燃料の相場を尋ねると口ごもる。どうやら燃料は買わずに済ませていたらしい、怪しげなものだ。それでもちっとも儲からないので嫌になって、しまいには売ってはならぬ物まで売った。けれど取締りが厳しくてじきに目をつけられた。商売をやめたのはなかなか潮時だったよ、とにやり笑う。

売ってはならぬものが何か王さんは言わない。アヘンか何かだろうと見当をつけた幸太が顔をしかめたのを見て王さんはまたにやりと笑った。
「冗談、冗談。でもね、貧乏人は何でもする、正味、仕事選んでたら食えない」
「どうせ、ずるいことしよったんじゃろ」
「まぁまぁ、ずるいくらいでなきゃ、バカみるわ」
王さんはそこで少し声をひそめた。
「大連で砂糖を運んだ?」
「うん」
「私なら一握りとって売る、いい金になる」
「砂糖が?」
「幸太、本当に砂糖と思う?」
「何だと?」
「あっはは、その小男は幸太(ひと)の使い方がうまいわ」
幸太が目を丸くするのを見て、王さんは愉快そうに声を上げて笑った。
そのときドンドンと乱暴な音がした。隣の部屋だ。王さんの部屋の戸を誰かが叩いている。
「何事じゃ?」
幸太が見に出ようとするのを王さんは青い顔をして押しとどめた。
「だめだめ、夜更けにあんな音、ロクな奴じゃない。関わるな、幸太」

音が止んで足音が遠のくと、王さんは急に神妙な顔になった。
「明日、吉林の方へ行く便がない?途中まででもいい、どうか乗せて」
「どうした、王さん。そんな顔して、ガラでもない」
「実は吉林に兄がいる。長患いでもう危ない。今のうちにひと目会いたい」
ちょうど翌日、吉林に行く便があった。
「よし、わかった」幸太が引き受けると王さんは平伏して喜んだ。


翌日の昼前には無事吉林に着いた。さすがの王さんも心配のせいか口数が少なく静かな道中だった。兄への土産だという大きな荷物を大切に抱えた王さんは吉林の表通りの人ごみに消えてすぐ見えなくなった。


その夜、新京の部屋に戻ると、誰もいないはずの王さんの部屋に灯りがついて人影がみえた。不審に思って覗くと目つきの鋭い小柄な満人と目が合った。途端に満人は幸太の胸倉をつかんだ。
「おまえか、逃がしたの」
「逃がす?何を言うか?王さんは兄さんの見舞いに行ったんじゃ」
「兄?わたし、兄!」
「え?」
「私、兄!」
その間、もうひとりの男が王さんの荷物をかき回し、箱という箱をひっくり返している。何を探しているのだろう。幸太は王さんがやけに大きな荷物を抱えていたのをふと思い出した。あの荷物は何だ?

結局、男は何も見つけられず、苛立ちまぎれに腰掛をつかむとレンガ壁に向かって力任せに投げつけた。壊れ砕けた腰掛はバラバラの木片になって埃っぽい土間に散乱した。
「どこ?」
「何が?」
「兄弟どこ?」
「おまえ本当に王の兄さんか?」
目つきの鋭い男は眉をしかめて口を尖らせた。その顔は王さんにそっくりだ。

騒ぎを聞きつけて集まった近所の者の中から腰の曲がった満人のばあさんが走り出て部屋の酒瓶を指して叫んだ。なりふり構わず転げまわって大声で泣き、ついには幸太の腰に取りすがって何か訴えた。
「酒代、払え、だ」目つきの鋭い男が下手な日本語で通訳した。どうやら王さんは幸太の使いで来たと言っては酒を買っていたらしい。全部幸太のツケだという。

払う気はなかったが、自分も酒を飲んでいるので気の毒なのと、腰の曲がったばあさんが泣き続けるのが哀れだ。放っておくといつまでも泣く。幸太はうんざりした。仕方なく金を出した途端、ばあさんはぴたり泣き止んで札をひったくり、唖然としている幸太を尻目に、しゃんと腰を伸ばしてすたすたと歩き去った。

幸太の顔を見て男は笑った。人の顔を見て笑うところも王さんにそっくりだ。こいつは王さんの兄に違いない。幸太は男に王さんは吉林だと教えてしまった。



 ■■■ 作者から一言 ■■■
電車が脱線したらそこで動かなくなってしまうのに、お話は脱線しても止まらない。どんどん進んで困ってしまうこともある。たいてい困ってしまうのは周りの人だけで話してる本人はちっとも困らないから脱線話はますます勝手に進んだりする。

電車も話も脱線は困る。でも電車の脱線より話の脱線のほうがマシ。電車の脱線は命が危いし恐いけれど、話の脱線なら命に別状はない。たまには話してる本人だけでなく周りの人も楽しいことだってある。そういう楽しい脱線はいいな。

で、楽しい脱線についてこっそり考えている。


 ■■■ プロフィール ■■■
辰年・獅子座生まれ。犬猫とゴハンが大好きな2児の母です。注)尚ダイエット中^^;。
posted by 村松恒平 at 00:24| Comment(1) | TrackBack(0) | 彼の岸異聞
この記事へのコメント
たまたま通りかかって一読させていただきました。
うまい、面白い、天性の面白さだという印象です。

Posted by utsugi at 2008年03月17日 08:46
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