2006年09月07日

彼の岸異聞 (4.病人運び )

満州は広い。いったん町を出ると海原のような原野だ。トラックは海に投げ出された一隻の小船に等しい。

幸太は地図を持たない。却って勘が狂う、と地図があっても見ないでトラックを走らせる。目先の道を探すと迷う。迷えば死ぬ。広大な原野を孤走してまずそう知った。道よりも太陽の向きと地形。方角は記憶と勘、最後は運が頼りだ。

8月の終わり頃、風には秋を感じるが原野はまだ緑に覆われている。澄みわたって高い空に遠山の稜線がくっきりと見える。普通、景色は後ろへ後ろへと流れていくが、その山は半日トラックを走らせても全く姿を変えない。月や太陽と同じで近く見えるが実は彼方にあるのだ。

その広大な土地にぽつんぽつんと日本人移民の村が点在している。入植しているのは若い夫婦たちだが、中には十代の子供ばかりの義勇団もあるという。想像以上に厳しい暮らしに体や心を病んで倒れたり、寂しさに耐え切れずに逃げ出して野垂れ死んだり、痛々しい。内地じゃええことばっかり言うけど、こっちに来りゃそりゃぁいろいろあるらしいで、運転手仲間から聞いた話を思い出しながら幸太は荷を運ぶ。村々から新京に向かうわだち沿いの草むらから鳥が飛び立って、時折警告のように鋭く鳴いた。

ある夕方、土壁の崩れた廃村を通りかかった。手を振る人影が見えてもスピードは緩めない。(めったな所じゃトラックを停めたが最後、匪賊に囲まれて殺されるんよ)地元の運転手から脅かされていたし、もとより荷が重くて道がはかどってない。止まっている場合ではない。けれど幸太はブレーキを踏んだ。崩れた塀のかげから日本語が聞こえたのだ。

「足を止めて申し訳ねぇ」
傾いて尚強烈な晩夏の日を背に人影が五つ近づいてきた。なぜか突然、背中に汗がにじんだ。どこかおかしい。こんな荒れた村に人が住めるもんか。いや、怖気づいてはいかん。動けないでいるうち一番背の高い影が運転席の脇で丁寧にお辞儀をした。

「病人があって困っとるだ」
声は少年のようだ。病院に連れて行く手立てもなく悪くなる一方で途方にくれていた。勝手なお願いだが、病院まで運んではもらえまいか。通りすがりで迷惑をかける。五つの影は大地にしみこむ赤い夕日を背に深々と頭を下げた。

返事をしかねて黙っていた幸太の腹が鳴った。頭をかいて笑うと五人もつられて笑った。腹の力が抜けたような声だ。例の背高が
「ほんとうに申し訳ねぇだ。水も食い物もねぇのずら」
と謝った。そういえば、日が落ちて冷たい風が吹き始めたのに、皆ズボンしかはいてない。やせた腰からずれ落ちそうなズボンは泥で汚れほころびが目立つ。夕食も無いのか。

義勇団くずれ、そんな言葉が浮かぶ。内地では大東亜省が音頭をとって「満州で大地主」と国を挙げての大宣伝。だが実際は軍隊式の厳しい訓練の上にきつい農作業。落伍者もでる。さらに幸太は南山麓の奥さんの暮らしを思い、胸が痛んだ。同じ日本人だというのにこの境遇の落差はどうだ。
「分かった、荷台に乗せんちゃい」

いっそ皆で新京へ行ったらと勧めたが、自分達は行けないと五人は悲しげに口をそろえた。うす暗がりで病人を大豆袋の上に寝かせ、その上に幸太はシートを張り直した。病人は案外明るい声で布団の中から幸太に礼を言った。

幸太は残照の限りトラックを走らせた。アクセルを踏む足に力が入る。誰かが一緒にいると思うだけで心が弾む。こんな気持ちは初めてだった。

トラックを停めた時はすっかり暗くなっていた。シートを外し、手探りで病人の隣に寝転んだ。月のない夜で、広大な暗黒に大小の星が輝いていた。
「夜明け前にはまた走るけん、午前中にゃ町の病院に着くで。」
「夢のようずら。おらはあそこで終えるのだと覚悟を決めたとこだっただ」
「はよう治るとええなぁ」
「うん、治しちゃやく故郷(くに)へ帰りたい。」
幸太は運転席に戻って寝たが、明け方エンジンをかける前に病人にひと声掛けてシートを直した。

早朝、診療所で事情を話すと中年の看護婦が怪訝そうに幸太をにらんだ。
「はて、この辺にそんな村あったかね」
あったも何も、幸太はその村に立ち寄ったのだ。けれど新京に来て日が浅い幸太はろくな説明ができない。とにかく病人がいるのだ。
「ちょっと、あんた!」幸太の返事を待たずに荷台に上った看護婦が怒気を含んで叫んだ。「これ死体でしょうが!」
「なにっ!、死体なもんか。声を掛けたら返事をするし…」
「自分で見てごらん」
幸太が荷台に上がると看護婦が布団をめくった。病人は頭蓋骨の継ぎ目が見えるほど痩せ皮膚はまだらに変色している。目の辺りは黒く窪みハエがびっしりたかっている。ひどい匂いだ。
「こんな仏さん、よう一人で載せたねぇ。」
その骨ばった手に5束の遺髪が見えた。幸太は目を見張ってしゃがみこんだ。看護婦が人を呼び、死体が運ばれていくのを呆然と見送った。

それでも、声を掛けたら返事があった、夜には話もした。確かだ、確かだ。倉庫で会った運転手仲間たちは黙ってうなづいたが、やがて互いに顔を見合わせ、原野の孤独はこの世にないものを人に見せたり聞かせたりするのだとささやきあい苦々しく笑った。



 ■■■ 作者から一言 ■■■
稲の波間に赤とんぼが群れ飛ぶこの季節、明治生まれのひいばあちゃんの口癖を思い出す。

「この世にゃええことなんかないとか思うてもな、捨て鉢にならずにまじめにコツコツ暮らすんで。そうしたらあの世でええことがあるけんなぁ」

ひいばあちゃんの時代に比べたら今の暮らしはお気楽極楽。だから今のところ”あの世のええこと”を夢見ないでも暮らせるよ。

こんな世の中がこれからも続いてほしいと願ってるんだ。


 ■■■ プロフィール ■■■
辰年・獅子座生まれ。犬猫とゴハンが大好きな2児の母です。注)いまだにダイエット中^^;。
posted by 村松恒平 at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 彼の岸異聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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