2006年08月19日

彼の岸異聞 ( 3.行方知れず )

「すんません。わし、勝手なことして」
夕刻、仕事を済ませて事務所に顔を出した幸太は小男に頭を下げた。渡満直後、右も左も分からぬ大連で、仕事と住処をこの男の世話になった。その住処−南山麓の洋館−から幸太は家出したのだ。
「幸太、寝床が決まったら連絡してや」
「え?」
「仕事は続けてもらうわ。南山麓の奥さんの送迎も、今まで通りな」
小男は紫煙を吐いて渋面を崩し、幸太の汗じみたシャツの背を軽く叩いた。
「やれやれ、あんたの運転がえらいお気に入りや。車酔いしにくい言わはってな。あとこれ、奥さんから」
小男は洋車の運転席から五合枡ほどの重く暖かい袋を投げてよこした。


「おっちゃん、おれ、もう二三日ここに泊まらして」
おっちゃんと呼ばれた男は、整備中のトラックの下から首だけ出して幸太を見た。薄茶色の作業服の襟も揃いの帽子も土埃と機械油で汚れているが、服のボタンは全部留め帽子を律儀に真直ぐかぶっている。
「ええか、おまえ。ここは車庫じゃ、車庫。どこぞにあてはないんか」
「まぁ、どねぇかなるわ。トラックの荷台で寝るのにも慣れたし」
「ええ加減にせぇ。ここらぁ内地と違うんで、9月にゃぁ寒ぅなるんじゃ」
「うわ、何じゃこれ!」袋をあけて幸太は思わず声をあげた。
「おうおう、包子じゃな。ほう、いかいことぉ」
「饅頭に似とるけど、匂いが…」小豆餡の甘い匂いを裏切られ幸太は顔をしかめた。一緒に入っていた油紙の小さな包みからもれた液体が包子を黒く汚している。
「うまそうじゃのう」不自由な右足をかばいトラックのタイヤにすがっておっちゃんが立ち上がる。幸太が差し出した手は黙って払いのけ、おっちゃんは一人で立ち上がった。
「この黒いのは何」
「黒酢じゃ、包子につけて食うんじゃ、食うたことないんか」
「ない、おっちゃん食うて見してん、頼む」
「頼まんでもええ。はらぺこじゃけぇ全部でも食うちゃるぞ。へへ、わしも伊達に22年もおりゃあせん、満州(ここ)にな。」
機械油で汚れた手袋を脱ぎ、腰の手ぬぐいで額の汗を丁寧に拭いたおっちゃんは、幸太が袋ごと差し出した包子をひとつ取って二つに割った。
「それ、豚肉じゃ。野菜と混ぜて…、これが餡」
幸太に見せると欠けた前歯で右手の包子にかぶりついた。が、そのとたん眉根に皺を寄せ手の甲で頬を押さえた。
「うっ」
頬を押さえながらも目を閉じて噛んでいる。
「おっちゃん?」
目を閉じたまま、右手薬指と小指だけを軽く振るのは、心配無用の合図か、それとも邪魔するなという意味か。ようやく、口の中のものを名残惜しそうに飲み込むと、おっちゃんは左手の包子を幸太に差出した。
「うまいぞ、ほっぺたが落ちるわい。」

「わし、こんなうまいもん食うたことない」食い始めると幸太は手が止まらなかった。
「前は、道端の屋台で売りょうたんじゃがなぁ。なんぼにも、去年の不作がこたえとるわい。見てみぃ、肉なぞ配給がなかろうが」
返事の代わりに大きくうなづきながら幸太はおっちゃんに包子を差し出す。おっちゃんは遠慮したが、さらに勧めると丁寧に手を合わせてひとつだけとった。
「このごろは、良うないのぅ。満人なんかは普段の飯にも事欠くらしい。もともと一日二食じゃが、どうも一食は水だけじゃ」
最後の包子に伸ばした幸太の手がぴたりと止まる。

これをトヨに食わせてやりたい。
末妹のトヨは内地の小学四年生だ。握り飯はおろか、芋入りの粥さえ弁当に持たせてやれない日があって、昼にすきっ腹のまま校庭で遊んでいる。幸太が内地にいた頃、他家の手伝い仕事で駄賃のほかに芋や柿をもらったら、自分で食わずにこのトヨにやることに決めていた。
「ありがとう、おにいちゃん。あたし、うれしい!うれしい!」
記憶の中のトヨは芋を持って跳ね回る。そのトヨにこの包子を渡す。トヨはどんな顔をするだろう。饅頭なんか久しぶりだ。しかも中に肉が入った中国風の饅頭だ。

「まぁ、ゆっくり食えや。わしゃ帰るけえ。おまえ、カンヌキをかけて寝るんで」
食うのをやめてうなだれた幸太にささやくと、おっちゃんはびっこを引きながら車庫を出ていった。

最後の包子が食えないまま日が暮れた。車庫にこもった包子の匂いにまたトヨの顔が浮かぶ。

満州の給料は内地よりも良い。けれどその分使う。食い物も配給品だけでは足りないから闇市で買う。闇の値段は配給の10倍以上だ。兄と叔父に返す金が貯まるのはいつだろう。内地に帰れるのはいつになるだろう。

母や兄の顔が、友達が、故郷の野山が暗闇に浮かぶ。思い出したくもないしがらみや貧乏暮らしさえ暖かい色合いを帯びて浮かぶ。見送りもなく一人汽車に乗った。貨客船の狭苦しい下等客室で隣合せた娘は、満州では白飯が食えると笑った。その白い顔が包子に重なりトヨと重なって歪みながら暗闇に消えていった。

翌朝、空腹で目覚めた幸太は袋を探った。袋は空だった。
「おっちゃん、包子がない」
早朝、車庫を開けにきたおっちゃんの顔を見るなり幸太は訴えたが、おっちゃんが包子の行方を知るはずもない。

その後、幸太は仕事にかまけて行方知れずの包子のことをもう思い出さなかった。



 ■■■ 作者から一言 ■■■
お盆が過ぎるとすぐにお彼岸…、なんて考えるのは年をとったシルシだろうか。

お盆、お彼岸、秋祭り…、時間の流れはこれからぐっと速まる気がする。
気づいたらジングルベル?

子供の頃は時間なんて気にしなかった。
逆に、時間が気になり始めたらオトナなんだろうか。

いえ実は、今年も無為に一年が過ぎてしまう…という焦燥感をごまかしてるだけ。

なにか書けたらいいのにと心から思うのはこんな時なんだ。


 ■■■ プロフィール ■■■
辰年・獅子座生まれ。犬猫とゴハンが大好きな2児の母です。注)まだダイエット中^^;。
posted by 村松恒平 at 02:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 彼の岸異聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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