2006年07月24日

彼の岸異聞 ( 2.風呂嫌い )

小男の世話で、幸太は南山麓の洋館に間借りをした。南山は大連埠頭を望む低いはげ山だ。ふもとには東洋一と名高い満鉄大連病院、斜面は大連に住む日本人の高級住宅地になっている。

馬車や洋車が往来する広い石畳の並木道を通りぬけ、煉瓦塀に囲まれた贅沢な洋館に着いた。玄関を入ったとたん、分厚い敷物の上に寝ていた足の太い黒犬が幸太に吠えついた。金の首輪を光らせて生意気だ。幸太は犬の首っ玉をぎゅうとつかんで宙吊りにしてやった。犬は面食らって暴れたが、幸太がびくともしないと知ると耳としっぽを垂れて情けない声を上げた。

洋館の女主人は桃色の洋服に揃いの小さな帽子を頭に載せた化粧の濃い中年女だった。内地の女性は化粧はおろか、服といえば白ブラウスに絣のもんぺ姿だ。幸太は目を丸くした。女主人は満足そうに、伊勢町で洋品店を営んでいるのと愛想良く笑った。
「大連の銀座といえばいいかしら」
「わしは銀座やこ、知らん」
女主人は一瞬憐れみの目で幸太を見たが、口元を手で隠して如才なく「おほほ」と笑った。その足下に先ほどの黒犬がすりよって鼻を鳴らした。女主人は案外と手荒く犬の鼻面をはたいた。
「黒毛でしょ、毛が着いてねぇ…、失敗だったわ。」犬をにらんで嘆息した。しょぼくれた犬は背を丸めて出ていく。女は桃色のスカートが汚れていないことを確かめて満足げな笑みを浮べた。

大きな暖炉の客間で、小男と女主人が親しげにしゃべりはじめる頃、幸太は軽い吐き気を感じた。部屋に満ちた香水の匂いにあたっただろうか。大きなドアのような窓からこっそり庭に出て大きく息を吸った。山が近い。乾いたそよ風にアカシアがざわめく。いっそ山で野宿でもした方が気が楽だ。こんなお上品なところで暮らせるもんか。

その時、足もとに暖かな気配を感じた。見るとさっきの黒犬だ。幸太の足下に座って親しげに幸太を見上げ、しっぽを振っている。
「おまえも山に行きたいんか?」
犬の目がキラリと輝いた。

満人の阿姨(アーイ お手伝いさん)に
「そのへんを歩いてきます」
と言い置いて、幸太は犬と一緒に道へ出た。幸太が走ると犬がじゃれつく。幸太と犬は追いつ追われつ、子供が鬼ごっこをするように斜面のアカシアをぬって駆けまわった。黒犬はこの散歩が気に入ったらしい。幸太が行くところへはどこでもついてくるようになった。幸太は動物好きではなかったが、懐かれるとつい手をかけた。犬はますます幸太に懐いた。

とても暮らせないと思った家だったが案外と居心地が良かったのはこの黒犬のおかげだったかもしれない。さらにもうひとつ良いのは、この女主人がきれい好きで風呂好きだったことだ。幸太も風呂が好きだった。

時たま、仕事で旅順へ行った。幸太は黒犬をトラックの助手席に乗せて行き、帰り道、老虎灘の漁村辺りで犬に水遊びをさせた。浜で大はしゃぎする黒犬を見るうち幸太も泳ぎたくなる。白ふんどし一丁で幸太が泳ぎ出すと、黒犬もおそるおそる海に入り犬掻きでついてくる。幸太の泳ぎは音をたてずに川を渡るための古式泳法で、速度はないが体力の消耗が少ない。長く泳いでも平気だ。ところが黒犬は泳ぐのは速いが、途中で疲れてしまい放っておくと沈みかける。結局、幸太が犬の首を抱えて岸まで連れ帰らねばならない。そんなことが何度かあったが、犬はやっぱり幸太の後を、そこが陸だろうと海だろうとかまわずについてくるのだった。

7月の終り、幸太は初めての遠出の仕事を言い付かった。半月近くもかかって洋館へ戻った頃はもう盆の入りだ。黒犬がさびしがっているだろう。あいつめ、このところ鼻水を垂らしていたからな。あの女主人に冷たくされ、しょぼくれておれを待ってるに違いない。洋館に戻る道々、幸太は自分が駆け足なのに気づいて苦笑した。さびしかったのは犬も自分も同じ、いや、この駆け足はどうだ?黒犬に会いたくてたまらないのは自分の方だ。

「それが、熱を出してね。ええ、鼻水も目やにもひどくて…、毛が抜けて汚くて、最後は用も足せなくってね、大変だったのよ」女主人は雑誌から目を上げて幸太に愛想良く微笑んだ。女主人がひざに抱いた毛つやの良い灰色の猫が横目で幸太を見てそっぽをむいた。
「もう犬は止しだわ、今度は猫にしたのよ。どう?良いでしょう」
「犬の墓は?」
「ほら、病気だったから死骸も汚くってね、人に頼んで処分してもらったわ」

その晩、幸太は湯に浸かって立ち昇る湯気をぼんやりと見ていた。湯気はいつのまにか生き物の形をして跳ねながら幸太の周りを何度も回り、幸太にじゃれついてくる。それがどうしても、はしゃいで駆けまわるあの黒犬に見えた。わき腹のあたりに黒犬の体温と重みを感じてはっと目が覚めた。火の消えた仕舞い風呂でうとうとしていたのだ。それにしても…、と幸太はわき腹をなでた。これは黒犬を抱えて海岸に泳ぎついたときの感触ではないか。濡れた毛並み、暖かい吐息。幸太は小さく息を吐いた。

翌朝、幸太は洋館を後にして朝日の道をアテもなく歩いていた。

「知っとるか?満人はな、わしらが湯に浸かるのを汚いと言うんじゃ。尻まで浸かった湯で顔も洗う、と言うてな。」後々、風呂嫌いのわけを人に聞かれると幸太は決まってそう答え、なぜか小さく息を吐いた。



 ■■■ 作者から一言 ■■■
最近無駄使いばかりしている。何を買っているかといえば本。その本なんだけど、主婦には分不相応な品物みたい。化粧品や服を買ったら?とか、もっと家事をしたら?とか、家族からいろんな声が聞こえて本を買うのには、罪悪感が沸く。最近家が片付かないのはやっぱり本のせいかも。買う本が増えて読む時間も増えた。

過ぎたるは及ばざるが如と自戒しながら、でも、本はやめられそうにない…。

 ■■■ プロフィール ■■■
辰年・獅子座生まれ。犬猫とゴハンが大好きな2児の母です。注)ダイエット中^^;。
posted by 村松恒平 at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 彼の岸異聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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