自転車の脇で、群がる薮蚊と格闘しながら、汗だくで修理に取り組むご主人に、目が合ったら蹴飛ばされそうな雰囲気。「ああ、くそっ」とか言って、藪蚊を叩いたり、自転車を殴ったりする、一触即発の気まずさ。オレは身じろぎ出来ず、そこから立ち去るきっかけを探していた。
数ヶ月前、奥様の提案で購入した、色違いの新品自転車2台。ところが自転車の外出は、いつもどちらか一人だった。奥様のパートと、定年近いご主人の仕事で、休日が合わなかったからだ。だからこの日は、二人揃って初めてのサイクリングというわけだ。
前日ご主人は、空気入れやカッパや修理具など買い込んで、晩は地図を広げ、奥様と深夜まで話し合って、いつになく陽気なご様子。幸せなご夫婦の邪魔をすまいと、オレは早めに寝床についた。
当日の朝、普段より早起きして、弁当の準備をしていた奥様は、オレにお裾分けしてつぶやいた。「嬉しい朝よねえ。」
どちらかというと古風な奥様だが、この日に限って鼻歌まじりで、決して若くないご夫婦の昼食にしては、ずいぶんな量の弁当をこしらえていた。ご夫婦の間に子供がいたなら、年相応に老けていたかも知れないし、オレはここに居なかったかも知れない。
ご主人が不似合いなデイバックを背負って、奥様は珍しくジーンズをはいて、「さあ」と自転車にまたがったところで問題が起きた。昨日まで何ともなかった奥様の自転車の、タイヤの空気が無い。すぐにご主人が空気を入れ直して出発したが、5分もすると自転車を引いて帰ってきて、「すぐ済むよ。」とオレにウインクしてパンク修理を始めた。
チューブを引っ張り出して、空気を入れて、洗面器に汲んだ水にそのチューブを入れて、空気が漏れている穴を見つける。そしたら、穴の周辺を紙ヤスリで粗くして、ゴムのりを均等に薄く塗り付けて、替ゴムを貼ってトンカチでバンバンバンって叩くんだ。ご主人は、さも楽しそうに説明しながら作業した。うん、うん、と頷きながら横で見ている奥様は、頼もしいご主人にうっとりしていた。
ところが10分経っても20分経っても、破損個所は見つからず。奥様は頑張って姿勢を変えずに待っていたけど、ご主人は苛つきはじめ、「自転車屋探してくる」と言って、プイと一人で出掛けてしまった。仕方なく奥様は、一旦家の中に戻って、ご主人のためにお茶の準備を始めた。
ご主人は結局、1時間位して自転車を引いて戻り、再び黙って修理開始。奥様が気がついて家から出てくると、「店、閉まってた」とだけしか言わない。オレは気を遣ってご主人に愛敬振りまいたが完全無視。今度は奥様がご主人に気を遣って、あれこれ話し掛けたが、ご主人は気を遣われれば遣われるほど苛立つご様子。
ご主人は、脇目も振らずああでもないこうでもない、と作業を続けている。「ああ、もお」とか「ちぃぃ」とか言うから奥様も落ち着かなくなってきて、「またにしましょう」「お弁当食べよう」と言った。言ってしまった。
奥様が言った後「カチン」とどこかで音がした。ご主人の顔は、見る見る赤くなり、オレは怖くなってひるんだ。奥様も、その場で固まってしまった。ご主人の瞼は厚みを増して瞳が暗くなり、その手は、ぴたりと動かなくなった。怒りのぶつけどころは?オレか?
そのまま皆、しばらく黙っていた。
「昨日、私がちゃんと確認しなかったから。ごめんなさい。」と奥様が口火を切った。
「なんでお前が謝るんだ!」そう叫んでご主人は、水を張った洗面器をオレに向けて蹴飛ばした。不器用にも、洗面器は見当違いの方向にひっくり返って、奥様のジーンズがびしょ濡れ。
「ごめんなさいって言ってるじゃない!」
「だから!お前が謝るな!」
奥様は手で顔を覆ったまま立ち尽くしていた。ご主人は、狂った機械のように、チューブへの空気を入れはじめ、怒りの矛先となったタイヤチューブは、元の2 倍以上に膨れていた。ご主人が手を休めたとき、微かに空気の漏れる音がして、眼を腫らした奥様が、洗面器に水を汲んだ。ご主人が、巨大なチューブの点検を始めると、
ぷしー
一瞬、洗面器から飛沫が昇った。
ご夫婦は、チラと目を合わせ、すぐに洗面器に視線を戻した。沈めたチューブの一点から、仁丹のような泡がぽこぽこ出ていた。「ここだあ」ご夫婦は揃って目頭を熱くしていた。ご主人は、チューブを握った手を離さず、その位置を調整しながら何度も飛沫をあげて、奥様と二人で「ぷしー」を見て泣き笑いしていた。
「ちょめぞう、来い!」オレは、ご夫婦に呼ばれて、思わず尻尾を振って近づいた。「見ろ!」ご主人と同じ方向を見ると、自転車を跨ぐくらいの小さな虹が架かっていた。
オレは初めて虹を見た。
とても綺麗で、うれしくて、何度も何度も虹に向かってジャンプした。
■■■ 作者から一言 ■■■
×造(チョメゾウ)は、不思議なやつで、何にでもなれるし、どこにでも現れる。
犬かと思えば次は少年だったり、もしかしたら生き物以外かも。
言わばジョーカー、もしくはワイルドカード…うまく使えば切り札!
…今まで漫然と詩や散文を書き散らしていた、chitokuという沈殿気味のアマチャンが、その切り札を最大限に活用しようという訳です。
×造は、パラレルに生きる別の私であるような気もします。
これから出てくる、様々な×造に、どうぞ御期待下さい。
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