【5】[キョウ - 世界の向こうで混ざって溶けろ - ]
「飛びそうだった?」
暗くなった街を野音のある美鷹駅へと向かう快速の、シートの端に沈むヒメはそっと言った。
「飛びたそうだった。てか落ちそうだったよ、ヒメ揺れてた」
ヒメの横でスティールパイプに凭れて立っている僕は、街の灯が流れていく反対側の窓に浮かぶヒメに答えた。
「幽霊って寂しいね。私、強い方だと思ってたの。小さい頃から両親は殆ど家に居なくて独りでいた。母に甘えると『子供みたいな事しないで』って何度も怒られたの。父も母も子供の私に大人の対応を要求した。嫌われているのよ私。6歳で習わせられた日本舞踊とピアノは、1日も休まずに続けてる。これ以上嫌われたくないから。…あれ、なんでこんな事話してんだろ?」
僕を見上げたヒメの目は溢れそうな涙で揺れていた。僕は静明川の水に濡れてしまったハンカチを渡した。
「ありがとう」
呟いた途端に揺らぎが一気に溢れる。
溢れ流れる涙をハンカチに受け止めながら、仕舞っていたモノを吐き出す様にヒメは話し始めた。
「高1で同じクラスになった紗英とは何でも話せる仲になったの。誰かに必要とされる感覚を初めて感じた。朝、家を出て学校に行くのが楽しかった。2年は別のクラスになったけれど、変わらず一緒にいた。ずっと何十年たっても友達だと思ってた。でも3年の始業式から紗英は私を幽霊にしたの。クラスの皆が廊下、トイレ、裏庭、至る所で私をイジメた。ネットの掲示板には「やらせます」って私の写真と携帯番号もアップされたの」
「それって何か引き金はあるの?」
「…多分、紗英の彼氏を私がふったからだと思う」
「ん?彼氏をとったのなら解るけれど」
「判らないけれど、春休みに携帯で告られて、その次の日に死ねって匿名メールが届いたのね」
「ふーん、そいつがサエちゃんに何かしたってことか」
「…多分、でも紗英に確認出来る状態じゃないから」
涙はずっとハンカチに流れている。止まる様子のない涙が静明川と混ざり合う。もう静明川よりもヒメの涙の方が多いだろう。
「世界は広いよ、ヒメ。でもオレ達に見える世界はとても小さいんだ。遥か彼方に見える地平線も、実はたった5キロ先なんだ。オレ達には半径5キロしか見えていない。もう見えないさっきの夕陽も、今頃はモスクワや北京の空を赤く染めていて、それを眺めている人が沢山いるだろう。1時間前迄のヒメの世界にオレは居なかった。でもオレ達は今、未だ見えない野音に向かってる。それは心が気持ち良くなるモノを探しに行くって事だ。意識を変えれば世界は何処迄も広がっていくんだよ。見えない処に大切なモノがある。大丈夫、君は独りじゃない」
そうなんだ、大切なモノはいつも見えない。でもこの半径5キロの世界の向こうには、沢山の見えないモノが散らばっている。生まれてきた事を後悔する程の悲しみも、死にそうな程笑える楽しみも。
「うーん、何だか本当に小さい世界の中で悩んでる気がしてきた。キョウ、ありがと。学校に行くのは嫌だけど、もう橋の欄干には立たないと思うよ」
泣き笑いで言ったヒメは、ポケットから赤い飴玉を僕に差し出した。
「ありがと、苺?」
口に入れると甘ったるい味が広がった。ヒメは飴玉を口に入れるとすぐに噛み砕いた。
「ずっと思ってたんだけどさ、早くね?噛むの」
「これは噛み砕くモノなの!頭蓋骨に響く音は他では出ない音なんだから。色々試した結果この苺飴が一番良い音するの。やってごらん」
「飴玉ジャンキー、ヒメもかなり変人だな。フィフスと合うかもね」
「そうなの?会うの楽しみになってきた」
ポケットで鳴った着メロが、車輪の騒音に支配されてた乗客の疎らな車内に響いた。
「Fly Me To The Moon、フィフスね」
「知ってんだコレ。ハロウ、…電車、…居なさそうだ、…で、いつもの様にマナー違反させて迄言いたい事って?…あぁ、行ってから考えようかと…そう、じゃ男女2枚頼むよ、正面ゲートで…」
「何?」
「電車で携帯使うなって怒られた。ヒメこの曲弾ける?」
「フィフスってちゃんとした事言うのね、話を続けるのが不思議だけど。弾けるよ、ジャズもたまに弾くの」
「まじ!じゃ今度合わせようよ、バンドやってんよ、フィフスと」
「バンド!Hysteric Work The OrangeってバンドをTVで観てから興味があるの!コードくらいならギターも弾けるよ私」
「ああ、ヒステリック出るから[Groove Tribe 2008]のチケット買ったんだ。てかギター弾きたいの?」
電車が大きく揺れた。駅手前のポイントを通過してるらしい。美鷹駅まできたみたいだ。扉が開くと、8月の暑さと車内ファンで殆どシャツの乾いた僕と、溢れる涙は静明川に溶けてすっかり消えたヒメは、並んでホームに降りた。
苺飴は最後迄噛み砕かないことにした。甘ったるいけれどゆっくりと溶かしていこう。もうすぐ見える野音迄は、この甘さに浸っていたい気分なんだ。
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