2007年09月15日

夜の屋上に佇んで

 屋上は静かだった。空には分厚く雲が重なり合い、月の光を微塵も下には零さない。マンション下の駐車場で整列した十数台の自動車。駐車場を挟んだ正面の高い木立。繁った木々の葉。その向こうに住宅街が続く。彼は耳を澄ます。すると一面に、虫の鳴き声が溢れだした。
 四階建て分譲マンション。3LDKの部屋。妻と娘、そして彼。それなりの仕事とそれなりの人間関係。
 バス停まで数分歩き、バスで駅まで10分足らず。急行の停車駅になっている駅のホームは混雑してはいるけれど、ぎっしりという程でもない。毎朝、彼は急行には乗らず各駅停車に乗り込み文庫本を広げる。そのまま40分。
 穏やかな虫の鳴き声の向こう、遠くから自動車の音が聞こえる。彼は駐車場を見下ろし止まった自動車に目を遣る。微かに香る甘い香り。キンモクセイ。

「眠れませんか」彼は声の方を見た。彼の隣に男がひとり立っていた。
「どうも」彼がそう言うと男は少し微笑んだように見えた。
「どうです。一本」男はタバコとライターを彼に差し出す。
 彼は手を挙げてそれを断ると自分のタバコを出してそれに火を点けた。最後のタバコだった。彼は空のケースを捻って丸めズボンのポケットに押し込む。
「全然だめですか」男は携帯灰皿の蓋を開け手摺りの上に置いた。
「そうですね」彼も自分の灰皿を手摺りに置いた。
「私もだめです」と男。
 男はタバコをふかす。彼もタバコをふかす。
 真夜中、マンションの屋上に灯るふたつの赤く小さな明かり。
「暗いですね」と男。
「暗いです」でも、しっくりと収まっている。と彼は思う。
 
「家族の方はみんなやすまれましたか」
「ええ、随分前に」
「うちも眠ってます。お子さんはひとりでしたっけ」
「ええ、娘がひとりです」と彼。男は三十前後で彼と同じ位の年齢だった。もしかすると二つか三つ男の方が年上かも知れない。男とここでこうして話すのは何度目だろう。夜中の屋上に現れる住人はほとんどいない。風に当たるにしてもタバコを吸うにしても、わざわざやって来るには夜中の屋上は少々暗すぎる。
「うちはまだです」男は新しいタバコに火を点けるとそう言った。
 彼は半分程残ったタバコを大きく吸い込んだ。吐き出した煙は彼の目の前で広がりあっさりと消えていった。
「子供です。そろそろと思ってもう三年になります。でもまだ出来ません。一度堕ろしてしまったのが良くなかったのかも知れません」男は独り言のようにそう言った。
「奥さんはおいくつですか」彼はそう言うとすぐに余計な事を聞いてしまったなと思う。
「僕と同い年です」と男。

 昨年の秋、彼は短い小説を何編か書いた。家族の寝静まった後、ダイニングテーブルにノートパソコンを置き、毎晩それに向かった。開け放った窓から流れ込む静かな虫の鳴き声の中、彼は独りそれを試みた。僕は、で始まる小説。彼は何かすべきだと思った。とにかく何かすべきだ。と。そして彼は小説を書いた。僕は、で始まる小説。

 僕は、剥がれかけている。しかし、何から剥がれ掛けているのか分からないし、そもそも剥がれるといっても、僕が感じているのは朧気な剥がれ感のようなものであって、具体的な何かから剥がれ掛けているというのでもなかった。それでも僕は剥がれ掛けている。しかし剥がれ切れはしない。僕は、誰もいないこの部屋で机に向かいPCのキーボードを叩く。うまくするとこれは剥がれ掛けたカサブタを剥がし切る作業になるかも知れない。

「すみません。余計なことまでしゃべってしまいました」

 今何時なんだろう。相変わらず遠くから自動車の音が間欠的に聞こえてくる。そして、間髪的な虫の声。彼は駐車場の向こうの木立に視線を注ぐ、しっかりとした樹幹、伸びた樹枝、そこで一枚一枚樹葉が絡み合う。駐車場に視線を移す。アスファルト上で整列した自動車。彼は一回目を閉じ、開くと煙草を一回大きく吸い込み、灰皿にそれを押しつけて消した。彼は試しに男と男の奥さんについて考えてみようとしたけれど、それは無駄なことのような気がした。

「少しは眠くなってきましたか?」と男。
「だめですね」と彼。
「それでも明日は仕事です」
「・・・・・・」
「今から眠っても明日はきつそうです」男は少し苛ついた声でそう言うと、大きく一回タバコを吸い込んだ。男のタバコの赤い光が一際大きくなった。

 彼は目を閉じ、開く。
 風景が変る。
 透過性皆無の黒でコーティングされたツルリとした風景。
 それが彼の前に真っ直ぐ伸びている。
 どこまでもどこまでも果てしなく伸びている。
 ただ、そこに、ぽっかりと開いてしまったトンネルのように。
 彼はもう一度目を閉じ、開く。
 目の前にはいつもの真夜中の風景。
 
「一本いただけますか」と彼。
 しかし、もうそこには誰もいなかった。



 作者・未木洋佑さんの自己紹介とプロフィール
posted by 村松恒平 at 02:07| Comment(0) | TrackBack(0) | その日とそのほかの日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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