その屋上で、理事長の華子が海を眺めて佇んでいた。華子は精神神経科の専門医だが実際の診療はタッチしていない。
千鳥ホーム内に診療所はなく、応急の時は母校の後輩が嘱託医として対処していた。夫の誠も徳川時代から御典医の家系で、親から引き継いだ医院を開業している。しかし華子とは別居の状態だった。夫は老人ホームの経営に興味がなく、千鳥ホームの運営は名実ともに華子に任せていた。若い美人の理事長華子は人気を呼び、今や入居希望者は順番待ちという盛況ぶりで、他の老人ホームの経営者達から羨やましがられる存在となっていた。
華子は海を見て、いつものように新聞相談室の回答の想を練っていたのだ。東海地方のT新聞社の毎週土曜日の読者相談では、華子の愛と性に関する相談は、ずばりと回答して「小気味良い」と言われていたのだ。
華子は携帯電話が鳴ったので見る。それは友人の百合子からの予期せぬ電話で、それも今、玄関に来ているという。
百合子は高校時代からの友人で、名古屋在住の劇団の女優である。かつては大変な人気女優だった。今、劇団の幹部をしている。
それにしても約束もなしに訪れるとは珍しい。何かあると思った華子は急いで玄関に行く。玄関には一台の洒落た白い車が止まっていて、大きな黒い帽子をかぶった百合子が立っていた。百合子らしい奇抜な帽子だ。
百合子は華子を見て、いつもの甘えたような声で話しかける。
「華子、突然で悪いわ。朝からこの近くのデザイナーの別荘で打ち合わせがあって、今終わって帰り道なの。ここまで来たら顔を見せなきゃ悪いものね」
と言う。相変わらずの調子の良さに華子は
「ちょうど居て、良かったわ」
と、苦笑しながら百合子の顔を見た。
百合子は華子と同じ年だから43歳になる。しかし、ふたりとも30台後半と見られていた。ところが今日の百合子はなんとなく冴えない。華子は何か心配事があるのではないかと思い、人が集まるロビーではなく、自分の部屋、つまり理事長室に百合子を案内した。
百合子は、饒舌で有名である。今日も部屋に入るなり、椅子に座る間も惜しんで立ち話となる。暫く会わなかった為か、次々と話題が出て賑やかなやりとりとなった。
秘書がコーヒーを運んできて二人はソファーに座った。コーヒーを一口すすった華子が、百合子に何気なく聞いた。
「ところで、リュウはどうしている?」
その言葉に、百合子は顔を曇らせた。
「華子、聞いてくれる。私、リュウのことで相談があるの」
華子は、百合子の訪問の目的がやっと分ってきた。しかしさりげなく、改めて年を聞く。
「彼は今年、確か17歳だったわね」
「そう17歳なの。それがね、急に高校へいかなくなったのよ」
リュウは百合子が産んだ子である。しかし独身女優という看板の手前、人には言えない事情のため、自分の子として公表できなかった。
そのため実の兄である元宮泰一の子供として育てられていた。元宮泰一は住宅会社の営業社員だったが、入籍の相談には快く応じてくれた。それは養育費の代わりとして百合子が老後のために建てた、女子学生専用アパートの管理人の仕事を与えられたからである。
しかし、収入が増えて仕事も前に比べ、はるかに楽になると、泰一の心の中には次第に怠け心がはびこっていった。いつしか朝から酒を飲むようになり、時々管理室で泥酔する始末となる。
泰一の妻は、酒浸りの夫の姿に愛想をつかし去って行った。それからリュウと二人暮らしを続けた泰一も、昨年、肝臓がンで死亡した。この泰一のいきさつについては、おおよそ華子は聞いていた。
リュウは、泰一が亡くなって一人で生活していた。アパートの管理の仕事は業者にまかせることにした。
百合子は時々リュウの部屋を訪れ、叔母ということで甥の独身生活を見守っていたが、葬儀から半年ぐらい経った頃から、リュウは百合子を避けるようになった。 百合子が話かけても返事をしなくなり、なんとなくよそよそしい態度となる。
そんな時、トイレが詰まり修理を依頼した際、その業者が詰まった物を見て驚いた。
作者・桜樹由紀夫さんのプロフィール