2006年06月28日

彼の岸異聞 ( 1.向こう岸 )

満鉄に仕事口があると聞いて大連まできた。ところが大連の満鉄に着いて聞くともう仕事は無いという。親が反対するのもきかず、兄と叔父に借金し、海をわたってここまで来た。このままで日本には戻れない。

アテもなく港橋をわたって山県通りを歩いた。これが都会というものか?広い通りには洋風の建物が並んでいる。銀行、病院はもちろん汽船会社、建設会社、通信社、映画会社、薬屋から呉服屋、楽器店までレンガ造りの建物はどれも6−7階建てで間口の広い立派な店構え。品物も豊富だ。内地で施かれている価格統制も「欲しがりません勝つまでは」の悲痛なスローガンもここには届かない。日暮れ時だというのにこの賑わい、人々の顔も明るく見える。満州はこの世の楽土、そう言ったのは誰だったろう。

人通りから外れて青葉の並木の脇にたたずむと、ため息がでた。夏だというのに乾いた冷風が吹き並木がザワザワと鳴った。運転さえできれば仕事はあるだろうとの見こみは甘かったかもしれない。この人の多さからすると、自分のような者がゴマンといるのではないか。見慣れぬ雑踏をぼんやり眺めるうち幸太は心細くなってきた。

そんな気持ちはすっかり幸太の顔に表れていたのかもしれない。「あんた、運転でけるんか?」突然の声に振向くと、こぎれいな身なりの小男が幸太を見上げて笑っている。その細い目が幸太の貧相な身なりを小ざかしく値踏みしている。「ハルピンへ行かへん?、仕事あるで。」心細さから、幸太はふたつ返事でこの話にのりそうになった。が、ぐっとこらえて唇を固く結ぶ。
「わし、大連へきたら仕事があるいうけんここへきたんじゃ。でも来てみたらもう無かった。こんな調子じゃぁ、これより北の方へは行きとうない。」
「ま、考えといて。」小男は幸太の不安を見透かしたように笑い、通りのはす向かいの建物を指して会社の名前らしきものを告げた。

二日後、男に教えられた建物の扉を押し開けた幸太はあの同じ笑顔で小男に迎えられた。男は内ポケットから銀のシガレットケースを取り出し幸太が見たこともない舶来物のタバコを勧めた。普段なら見知らぬ人の勧めるものは用心深く遠慮する幸太だが、つい好奇心に負けて手を出した。小男は満足げに笑った。幸太が迷っている間にハルピンの仕事は人繰りがついたという。またも仕事にあぶれた幸太は結局決まった仕事には就けず、この小男の紹介でちょこちょこと細切れのいろんな仕事を引き受けることになった。トラックさえ用意してもらえばなんでも運ぶ、そういう約束だ。

とりあえず自分の自慢は腕力と知恵だけだ、と幸太は思っている。自動車のハンドルは車の大きさに比例して大きく重くなる。堅いシートに腰掛けたまま、腕の力だけでハンドルをきる。パワーステアリングなどという便利な仕組みはもちろんない。自然、腕力や握力がつく。肩から腕にかけて盛り上がった筋肉をみるたび、幸太は丈夫な体を我ながら頼もしく思い、見知らぬ土地で暮らす不安も忘れて仕事にはげんだ。

ある夜、大連港から砂糖を積んだ。他の車は軍や業者の倉庫へ行くのに幸太のトラックだけは行き先が違う。実はそれまでにも2-3回こんなことがあった。最初はなんだかよく分からなかった幸太も、今は自分が何をさせられているのか察しがつく。こういった矛盾はいつでもどこでも人の世につき物だ。反感や苛立ちは感じなかった。なるほど、これが今の時代の儲け方だ。世の中強いものが得するようにできている。強いものがずるいことをしても、弱いものは黙って見ているしかない。人の善悪をとやかく言う前に自分がまず強い者にならねばならない。そう思っただけだった。

目的地に着くと人足達が荷をおろす。幸太はそのわずかな間にウトウトして夢を見た。トラックの荷台から蛆か蚯蚓のような細長い、白いものがするりとすべり降りて夜道を這っていく。幸太はトラックを降りて追いかける。白いものはだんだん伸びて糸のようになりながら小便臭い小路を抜け、今にも崩れそうな建物がロの字型に囲む広場を突っ切って、小さなボロ家に姿を消した。中には満人の子供がいて白いものをうまそうに舐めている。「うまいか?」と聞くと、「うまいよ」と日本語で答えた。「日本語しゃべれるんか?」「はい」そこで目が覚めた。

なんだ夢か。

ひょいと荷台を見ると、砂糖箱の上を、先ほどの白いものが這っている。あれは夢ではなかったか、いや、自分はまだ夢の続きを見ているのだろうか。暗がりに目を凝らすとその白いものは箱の隙間から中に入っていくようだ。幸太は運転席から飛び降りた。同時に荷台の下からぱっと何かが駆けだした。追って捕まえると満人の子供だ。小さな白い手に砂糖を握っている。「泥棒!」と怒鳴ると、「泥棒ではない」と日本語で答えた。「日本語しゃべれるんか?」「はい」

急に力の抜けた幸太の手をすりぬけて子供は逃げた。その後姿を溶し込んだ暗闇をにらみながら幸太は、これは夢の続きに違いないとつぶやいた。なぜならあの子供の声は夢で聞いた声、あの顔は夢で見た顔だったから。


 作者・はなさんの自己紹介
posted by 村松恒平 at 01:52| Comment(4) | TrackBack(1) | 彼の岸異聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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