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2008年01月27日

世紀末の女王(マザー) 第六話

 泰司は岩に腰を下ろし、見るとも無く縦穴を見下ろしていた。
縦穴へは大洞窟内の空気が吹き込み、医療軍の制帽からわずかに出ていた前髪を
なびかせている。
また、大洞窟のひび割れた天井からは、弱い光が線となって泰司の近くに
差し込んでいた。
それは、まるで泰司を空間ごと切り取り時間の流れを止めてしまったかのようで、
泰司の想いは過去に向かっている。
スローモーションで三名の少年が穴の中を転落していく。
過去何度となく見た、その映像に、泰司は心の奥底で叫ぶ。
それでも、12年の年月は泰司に取り乱さないだけの安定をもたらしている。

 無線機の着信音が追憶を破る。
泰司はすばやく気持ちを切り替える。
『任務は完璧に果たす』 心に誓う。
「こちら飛行船本部。他の分隊、未だ発見なし。
隊長のポイントに現れる可能性、大。 ご注意を」副長の栗山が笑う。
「了解、それは楽しみだ」 泰司は答える。
逃走した山田博之の捜索に医療軍は20名を投入していた。
十数キロ平米の大洞窟内の八箇所を泰司は選び出し、捜索隊を投入した。
泰司以外の七箇所にはそれぞれ二名を配し、残り5名が飛行船に乗り込み
大洞窟内を往復している。
泰司の単独行動は絶対的な格闘力の自負心から、隊長権限で決定し、
隊員にも異論はなかった。

 『あの村に行き着けるかもしれない』
鍾乳洞内を巡り歩いていた博之は、奥の知れない横穴を見つけた。
博之の脳裏には、居住地で囁かれていた「村」の存在が浮んでいた。
その村に行けば、厳しい労働から解放され安らかに生きる事ができる。
その村を博之も密かに憧れていた。そして、今追い詰められた博之には、
その村しか逃げ先はなくなっていた。
『村で一端落ち着き、機を見て爺ちゃんを助け出そう』
博之は横穴の中で歩を進める。

 強い風が縦穴に吹き込み、泰司の意識は再び穴の中に向かった。
12年前、泰司は医療幼年隊の卒業ミッションとして一隊十名を率いていた。
大洞窟内に隠された隊旗を見つけ出し、速やかに帰還を果たすという指令だった。
この縦穴捜索時に隊員全体で穴に下りたいという強い要望に泰司は押し切られた。
通常なら、泰司は適性のある隊員を選別して、捜索させたはずであった。
しかし、卒業を迎かえ、各隊員は試練を乗り越えることに、強い意義を
感じていたのだった。
そして、一時の妥協が悲劇を招いた。
未熟な一隊員が足を滑らせ、二名をも巻き込み落下した。
三名は、激流の音が鳴り響く暗い穴底に、飲み込まれていった。
彼等は二度と戻っては来なかった。そして5年後には死亡が宣告された。

 目前がわずかに明るくなるとともに、川の音が強くなった。
博之の歩が早まる。
五メートル下の穴底には強い水の流れがあり、上方十メートルには一段と
明るさがあった。どうやら縦穴は終わっているようだった。
『登ろう』 博之の心には村への期待が高まった。

 泰司は懸命に叫び声を押し戻していた。
川に飲み込まれてしまった少年が、亡霊となって縦穴を登って来る。
泰司は思わず穴から引き下がる。
その時、肘に無線機が触れ、わずかに冷静さを取り戻す。
努力を振り絞り、穴の中を再び覗く。
『バグだ』
博之は無線に「緊急…… 発見」と小声で告げ、着信音をバイブモードにした。

 縦穴を登り切り、虫化された博之の両の手が、縦穴の縁を強く掴んだ。
続けて、体を引き寄せ持ち上げれば、博之の上体は縦穴から乗り出す。
    
 まさに、そのタイミングを狙って、泰司は攻撃に出た。
頭部そして肩、手首を何度か鋭く蹴った。
バグの落ちまいとする意識が、泰司への攻撃と防御を控えさせている。
バグを穴下に墜落させる意図は、元より泰司には無かった。
バグが落下に気をとられている間に、出来るだけ相手の筋力と気力を
殺いで置きたかった。
そして、山田博之を落下させるかもしれないリスクを敢えて選び、
泰司自身の過去を克服したかったのだ。

 地表へ出ようとする度に打撃を受け、博之はあがいていた。
足を滑らせ、ずり落ち、そこで一呼吸をつき、ようやく冷静さを取り戻した。
落ちた瞬間に、兵士の顔に走った動揺が博之には気になっていた。
『どうやら、俺を突き落とす気はないらしい…… ならば 』
呼吸を整え、一気に地表によじ登った。その間、何度か打撃は襲ってきたが、
予期した打撃は耐えられ、博之は登る事に集中できた。

 地表に出た瞬間、バグの大きな横払いが来て、泰司は飛びのいた。
バグの赤らんだ顔からは激しい怒りが伝わってくる。
泰司には自然と笑みが浮ぶ、『さて、どうして捕まえてやろうか』
バグは手首を鎌のようにして、腕を振り落として来る。
虫化人間の強い筋力を考えれば、あたれば肉は削がれ、
骨はへし折られてしまうだろう。
風切り音を掻い潜り、泰司は退く。もう少し下がると、やや広めの平地がある。
『そこで、捕まえる』

 『落ち着け、落ち着け』博之は心に言い聞かせた。
怒りで攻撃が単調になっている。兵士は攻撃を見切ったかのように、
避ける距離を縮めている。
『よし、このまま単調でいき、慣れきった所で一気にトドメを刺す』
数度、同じパターンの攻撃を加え、反転、一機に間合いを詰め、横殴る。
兵士は避けきれない。充分な打撃が確信できた。

 「ギャルルルー」 叫び声を上げたのは博之の方だった。
強い痛みの後、右上腕が痺れている。
兵士はいつのまにか黒い電撃棒を両の手にひとつひとつ握っていた。
それを博之に翳すと、間合いを詰めた。
電撃が両肩を襲い、両腕が垂れる。『力が入らない』
一端、飛びのいて様子を伺っていた兵士が、また迫ってくる。
後は蹴りで兵士を牽制するしか、博之には術がなくなってしまった。

 「くそ、爺ちゃんを返せ、医療軍め!
全部知っているぞ、何もかにも。爺ちゃんは生きている」
兵士が退くのをやめ、立ち止まる。

 「馬鹿だな、お前は。そんな事を言えば一族すべてを逮捕、隔離だ。
お前が口走った事は、そのくらい重大な機密なのだぞ」
驚きで身を固くした博之の頭に父母や妹の顔が浮ぶ。
『どうする? どうしたらいいんだ』

 「俺は何も知らない、何も知らないんだ」
目に止まった石くれを兵士の顔めがけて、蹴り上げ、続けて兵士にとび蹴りをする。
身を低め、危うく避けた兵士を飛び越し、反転、後方から蹴りを入れる。
兵士は転がり、蹴りを避ける。博之は兵士を見据え、今度は縦穴へ走る。
「俺は何も知らないんだ」 兵士に向かって叫ぶと博之は縦穴の中へ飛び込んだ。

 悲鳴が消えて、泰司が縦穴を覗き込んだ時には、暗い穴底からは川の水音が
聞こえるだけで、何の物音も聞こえなかった。



 作者・マグナジオさんの自己紹介とプロフィール
posted by 村松恒平 at 11:11| Comment(27) | TrackBack(0) | 世紀末の女王(マザー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

バイト明けの朝、次の日の夕暮れ

1.

 缶は広い部屋の天井付近から次々と現れ、壁沿いに這ったレールをループして作業台まで落ちてきて溜まる。彼は作業台に立ち、溜まった缶を段ボール箱に詰め続けている。
 彼は思う。缶の流れ落ちる音はこの広い部屋にさぞ騒々しく響いていることだろう。と、しかし彼には聞こえない。強力な耳栓が音を完璧に遮断している。
 この広い部屋には彼の立っている作業台の他4台の作業台があり、その内2台は昼間しか使用しない。夜間は彼を含めた3人のバイトがそれぞれの作業台で、止めどなく流れ落ちては溜まる缶を箱詰めしている。
 広い部屋の3つの作業台。彼はずっと一緒のバイト仲間とまだ一度も言葉を交わしたことがない。ひとりは若く、短く刈り込んだ茶色な髪を帽子で覆い、“いつ止めてもいいんだぜ”という姿勢を表現して作業に取り組んでいる。もうひとりは随分と年長で、終始神経質そうな目で溜まっていく缶を見詰め、一心に箱に詰める。そして、彼。
 彼は作業を続けながら、時々天井を仰いで見る。作業台から洩れる蛍光灯の光は天井に届くまでに広い暗闇に吸収されてしまう。彼は黙々と缶を詰め続ける。

彼は会社を辞めた。入社3年目の退職。親会社100%出資の中企業。それなりの仕事とそれなりの人間関係。それでいいと思っていた。
 しかし、ある日、後輩を殴った。
「われわれはこんなもんすよ。ねっ。課長」いつもの居酒屋で上司に向けた後輩の一言。
 反射的に殴っていた。確かに彼も酔っていた。
 だけど意識ははっきりとしていた。

 明け方、天井付近の明かり取りから朝の弱い光が段々と差し込み、作業台から洩れる蛍光灯の弱い光と混ざり合い始めると、段々と広い部屋はその輪郭を浮かび上がらせる。丁度その頃、缶の流れが止まりバイト係の社員が現れる。「お疲れ」バイト係はそれだけ言い、そのまままたどこかへ消えてしまう。彼はバイト係に頭だけ下げ、作業台の回りの片付けをする。片付けを終え更衣室に向かう頃、部屋はすっかりその全容を現している。
 早朝、工場の門を出る。見上げる空は何処までも青い。彼は深呼吸を一回行う。

「辞めるって、お前どうするつもりなの。式までもう何ヶ月もないんだろ」辞表を出すと上司はそう言った。
「結婚は少し先に延ばします」と彼。
「彼女は何て言ってる」
「納得してます」そうとだけ彼は答えた。

 部屋に帰ると彼はカーテンを開き窓を全開にする。部屋に朝の光が溢れ込むと、誰もいない夜の余韻はさっとどこかへ消えてしまう。それから彼はシャワーを浴びてビールのレギュラー缶を一缶飲んでベッドに潜り込む。そして、目が覚めると夕暮れ。
 しかし、その日、部屋には彼女がいた。きれいに片づけられた部屋。カーテンは既に開き、部屋は朝の光で溢れていた。
「おかえり」彼女は彼を見て微笑む。
「会社は」と彼。
「休み」彼の意外そうな顔を見て彼女はもう一度微笑むとそう言った。
「そう」
「シャワー浴びちゃって、ごはんの用意しとくから」

 シャワーから上がるとテーブルには朝食が並んでいた。
 しかし彼はテーブルには着かずそのまま彼女をベッドへ誘い全裸にする。
 テーブルの上で朝食の湯気が朝の光をキラキラと反射させている。

2.

 目を覚ますと夕暮れ前だった。彼はベッドに腰掛け取り合えず煙草に火を点ける。片づいた部屋をゆっくり見回す。彼女はいなかった。テーブルの上はきれいに片付きその隅に招待状のようなものが置かれていた。彼はそれを手に取る。

         記

  日時 平成○年○月○日 日曜日
        挙 式 午前 十時
        披露宴 午前十一時
  会場 ○○○○ホテル ○○の間

 招待状のようなものは招待状だった。元同僚の結婚式。招待状をテーブルに戻し、時計を見る。銭湯が開くのには少し早いが、早過ぎるといった時間でもない。彼は洗濯物の詰まった袋を持って部屋を出た。

 アパートから駅へ住宅地を抜け四車線道路を渡る。
駅前まで続く商店街。途中で商店街を折れるとまた住宅地となる。細く入り組んだ道。一角の銭湯。銭湯横のコインランドリー。中に人影はない。扉を引く。すると乾燥機のドラムの回る音が響き出した。
 空いている洗濯機を探し洗い物を放り込みコインを入れる。
 備付けの椅子に腰掛け、隅に積まれた雑誌から適当に一冊選び、手に取る。
 週刊誌のグラビアページをパラパラと捲る。
 数ページ捲った所で、彼の手は止まった。
『一度お願いしたいOL』
 真っ直ぐ前方に投げ出された長い脚、ぴったりと揃えられた両脚の交わりで小さく盛り上がった陰毛、腰から贅肉のない腹。過不足のない胸は、両腕を後方について身体を支えているためか、実際以上に強調されている。背けられた顔の僅かに覗く口元。
 紛れもなく彼女だった。

3.

企業会計原則の第一、一般原則の六はこうだ。
企業会計は、企業の財政に不利な影響を及ぼす可能性がある場合には、これに備えて適当に健全な会計処理をしなければならない。
保守主義の原則と呼ばれるものだ。

 会社を辞めて直ぐ彼は勉強を始めた。公認会計士。高難易度の専門的で実際的な国家資格。この半年、週の前半を工場でのバイトにあて、後半は会計学校に通った。資格取得まで最短2年。監査法人に就職して3年間の業務補助または実務従事。その後最終試験をパスすれば公認会計士として登録出来る。道のりは長い。しかしそれだけの価値はある。

 銭湯には誰もいないようだった。彼は番台に料金を置くと、使い捨ての石鹸、シャンプー、リンス、それから安全剃刀を買った。脱衣箱の列の中から適当な位置の脱衣箱を選び彼は着ている物を脱いだ順に入れていく。
 トランクス一枚になった時、携帯電話が鳴り始めた。電話は招待状の元同僚からだった。彼は少しのあいだ携帯電話の画面を眺め、通話ボタンを押す。
「久しぶり。このくらいの時間じゃないとつながらないって彼女から聞いたから」と元同僚。
「久しぶり」と彼。
「招待状届いたでしょ」
「届いてた」
「どう?」
「行けないって伝えてもらったつもりだったけど」
「彼女からはそう聞いたけど、やっぱりふたり揃って来て貰いたくて。我々は同期なんだし」
「元はね」
「元だけど、同期でしょ。二次会は4人でよく行ったあの店。憶えてるでしょ」
「社内恋愛で結ばれるふたりの結婚式に会社を辞めた人間が行けると思う」
「来れない?」
「普通、行かない」
「彼女はふたりで来たいふうだけど」
「・・・・・・」
「どう?」と元同僚。
「考えてみるよ」
「いい返事まってるよ。まだ仕事中だらか。じゃあまた」
「ああ」電話は切られた。彼は携帯を閉じると脱衣箱に置いた。

 一番風呂かと思って入った浴場には先客がいた。湯気の立ちこめた浴場の湯船の縁に老人がひとり腰掛けていた。彼が浴場に入ると老人は湯気の向こうで彼に少し顔を向けた。
 彼は身体を流し湯船に浸かる。両手で湯をすくい顔を拭う。浴場に濃く漂う白い湯気。冷えた雫が天井から彼の頭に落ちる。天井付近の全開にされた換気窓。換気窓から湯気は外へ外へと流れ出ている。彼はもう一度顔を拭うとゆっくりと息を吐き出した。

 銭湯を出るとコインランドリーに寄って洗濯物を乾燥機から袋に移す。
それから、簡易テーブルの上で週刊誌を開いた。グラビアの彼女を眺める。やはり、彼女の身体だった。彼はページを閉じ、週刊誌を元の場所に戻す。

 コインランドリーを出ると、夕暮れ時の住宅地に立ちこめる夕餉の雰囲気の中、彼は、ゆっくりと、部屋へ歩いた。

4.

 部屋に帰りドアを開くと、片付いた1DKは夕暮れに沈んでいた。
 所定の位置に洗濯物の袋を置くと、一瞬、そこに夕陽の微塵な輝きが胞子となって舞い上がった。
 部屋中。あらゆるものが微塵な胞子を纏い柔らかに膨らんでいた。
 ゆっくりとベッドに腰を下ろす。彼の回りで夕陽の胞子が舞い上る。
 テレビとレコーダー、パソコンとプリンター、本棚と参考書、テーブルと招待状。
沈黙していた。静寂があらゆるモノとモノとの関係を分断し続けていた。
 彼は立ち上がりベランダに出る。

 夕暮れの世界。

 そこで彼は彼女を発見する。アパートまでの住宅地の道を彼女はこちらに向かって真っ直ぐに歩いてくる。彼女はベランダの彼に気付くと立ち止まり手を振る。
 彼は部屋を振り返る。
 彼はむかし読んだこんな言葉を思い出した。

黄昏
沈んでゆく陽かりのなかで
何もかも
誰も彼も
静かに輝き
そして、静かに消えてゆく

5.

 彼はベランダの手摺りにもたれかかると彼女に手を振った。



作者・未木洋佑さんの自己紹介とプロフィール
posted by 村松恒平 at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | その日とそのほかの日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月02日

少年少女 Got Short Dance

【5】[キョウ - 世界の向こうで混ざって溶けろ - ]

「飛びそうだった?」
 暗くなった街を野音のある美鷹駅へと向かう快速の、シートの端に沈むヒメはそっと言った。
「飛びたそうだった。てか落ちそうだったよ、ヒメ揺れてた」
 ヒメの横でスティールパイプに凭れて立っている僕は、街の灯が流れていく反対側の窓に浮かぶヒメに答えた。

「幽霊って寂しいね。私、強い方だと思ってたの。小さい頃から両親は殆ど家に居なくて独りでいた。母に甘えると『子供みたいな事しないで』って何度も怒られたの。父も母も子供の私に大人の対応を要求した。嫌われているのよ私。6歳で習わせられた日本舞踊とピアノは、1日も休まずに続けてる。これ以上嫌われたくないから。…あれ、なんでこんな事話してんだろ?」

 僕を見上げたヒメの目は溢れそうな涙で揺れていた。僕は静明川の水に濡れてしまったハンカチを渡した。
「ありがとう」
 呟いた途端に揺らぎが一気に溢れる。
 溢れ流れる涙をハンカチに受け止めながら、仕舞っていたモノを吐き出す様にヒメは話し始めた。

「高1で同じクラスになった紗英とは何でも話せる仲になったの。誰かに必要とされる感覚を初めて感じた。朝、家を出て学校に行くのが楽しかった。2年は別のクラスになったけれど、変わらず一緒にいた。ずっと何十年たっても友達だと思ってた。でも3年の始業式から紗英は私を幽霊にしたの。クラスの皆が廊下、トイレ、裏庭、至る所で私をイジメた。ネットの掲示板には「やらせます」って私の写真と携帯番号もアップされたの」
「それって何か引き金はあるの?」
「…多分、紗英の彼氏を私がふったからだと思う」
「ん?彼氏をとったのなら解るけれど」
「判らないけれど、春休みに携帯で告られて、その次の日に死ねって匿名メールが届いたのね」 
「ふーん、そいつがサエちゃんに何かしたってことか」
「…多分、でも紗英に確認出来る状態じゃないから」
 涙はずっとハンカチに流れている。止まる様子のない涙が静明川と混ざり合う。もう静明川よりもヒメの涙の方が多いだろう。

「世界は広いよ、ヒメ。でもオレ達に見える世界はとても小さいんだ。遥か彼方に見える地平線も、実はたった5キロ先なんだ。オレ達には半径5キロしか見えていない。もう見えないさっきの夕陽も、今頃はモスクワや北京の空を赤く染めていて、それを眺めている人が沢山いるだろう。1時間前迄のヒメの世界にオレは居なかった。でもオレ達は今、未だ見えない野音に向かってる。それは心が気持ち良くなるモノを探しに行くって事だ。意識を変えれば世界は何処迄も広がっていくんだよ。見えない処に大切なモノがある。大丈夫、君は独りじゃない」

 そうなんだ、大切なモノはいつも見えない。でもこの半径5キロの世界の向こうには、沢山の見えないモノが散らばっている。生まれてきた事を後悔する程の悲しみも、死にそうな程笑える楽しみも。

「うーん、何だか本当に小さい世界の中で悩んでる気がしてきた。キョウ、ありがと。学校に行くのは嫌だけど、もう橋の欄干には立たないと思うよ」
 泣き笑いで言ったヒメは、ポケットから赤い飴玉を僕に差し出した。
「ありがと、苺?」
 口に入れると甘ったるい味が広がった。ヒメは飴玉を口に入れるとすぐに噛み砕いた。
「ずっと思ってたんだけどさ、早くね?噛むの」
「これは噛み砕くモノなの!頭蓋骨に響く音は他では出ない音なんだから。色々試した結果この苺飴が一番良い音するの。やってごらん」
「飴玉ジャンキー、ヒメもかなり変人だな。フィフスと合うかもね」
「そうなの?会うの楽しみになってきた」 

 ポケットで鳴った着メロが、車輪の騒音に支配されてた乗客の疎らな車内に響いた。

「Fly Me To The Moon、フィフスね」
「知ってんだコレ。ハロウ、…電車、…居なさそうだ、…で、いつもの様にマナー違反させて迄言いたい事って?…あぁ、行ってから考えようかと…そう、じゃ男女2枚頼むよ、正面ゲートで…」
「何?」
「電車で携帯使うなって怒られた。ヒメこの曲弾ける?」
「フィフスってちゃんとした事言うのね、話を続けるのが不思議だけど。弾けるよ、ジャズもたまに弾くの」
「まじ!じゃ今度合わせようよ、バンドやってんよ、フィフスと」
「バンド!Hysteric Work The OrangeってバンドをTVで観てから興味があるの!コードくらいならギターも弾けるよ私」
「ああ、ヒステリック出るから[Groove Tribe 2008]のチケット買ったんだ。てかギター弾きたいの?」

 電車が大きく揺れた。駅手前のポイントを通過してるらしい。美鷹駅まできたみたいだ。扉が開くと、8月の暑さと車内ファンで殆どシャツの乾いた僕と、溢れる涙は静明川に溶けてすっかり消えたヒメは、並んでホームに降りた。
 
 苺飴は最後迄噛み砕かないことにした。甘ったるいけれどゆっくりと溶かしていこう。もうすぐ見える野音迄は、この甘さに浸っていたい気分なんだ。



 作者・和倉さんの自己紹介とプロフィール
posted by 村松恒平 at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 少年少女Got Short Dance | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月15日

夜の屋上に佇んで

 屋上は静かだった。空には分厚く雲が重なり合い、月の光を微塵も下には零さない。マンション下の駐車場で整列した十数台の自動車。駐車場を挟んだ正面の高い木立。繁った木々の葉。その向こうに住宅街が続く。彼は耳を澄ます。すると一面に、虫の鳴き声が溢れだした。
 四階建て分譲マンション。3LDKの部屋。妻と娘、そして彼。それなりの仕事とそれなりの人間関係。
 バス停まで数分歩き、バスで駅まで10分足らず。急行の停車駅になっている駅のホームは混雑してはいるけれど、ぎっしりという程でもない。毎朝、彼は急行には乗らず各駅停車に乗り込み文庫本を広げる。そのまま40分。
 穏やかな虫の鳴き声の向こう、遠くから自動車の音が聞こえる。彼は駐車場を見下ろし止まった自動車に目を遣る。微かに香る甘い香り。キンモクセイ。

「眠れませんか」彼は声の方を見た。彼の隣に男がひとり立っていた。
「どうも」彼がそう言うと男は少し微笑んだように見えた。
「どうです。一本」男はタバコとライターを彼に差し出す。
 彼は手を挙げてそれを断ると自分のタバコを出してそれに火を点けた。最後のタバコだった。彼は空のケースを捻って丸めズボンのポケットに押し込む。
「全然だめですか」男は携帯灰皿の蓋を開け手摺りの上に置いた。
「そうですね」彼も自分の灰皿を手摺りに置いた。
「私もだめです」と男。
 男はタバコをふかす。彼もタバコをふかす。
 真夜中、マンションの屋上に灯るふたつの赤く小さな明かり。
「暗いですね」と男。
「暗いです」でも、しっくりと収まっている。と彼は思う。
 
「家族の方はみんなやすまれましたか」
「ええ、随分前に」
「うちも眠ってます。お子さんはひとりでしたっけ」
「ええ、娘がひとりです」と彼。男は三十前後で彼と同じ位の年齢だった。もしかすると二つか三つ男の方が年上かも知れない。男とここでこうして話すのは何度目だろう。夜中の屋上に現れる住人はほとんどいない。風に当たるにしてもタバコを吸うにしても、わざわざやって来るには夜中の屋上は少々暗すぎる。
「うちはまだです」男は新しいタバコに火を点けるとそう言った。
 彼は半分程残ったタバコを大きく吸い込んだ。吐き出した煙は彼の目の前で広がりあっさりと消えていった。
「子供です。そろそろと思ってもう三年になります。でもまだ出来ません。一度堕ろしてしまったのが良くなかったのかも知れません」男は独り言のようにそう言った。
「奥さんはおいくつですか」彼はそう言うとすぐに余計な事を聞いてしまったなと思う。
「僕と同い年です」と男。

 昨年の秋、彼は短い小説を何編か書いた。家族の寝静まった後、ダイニングテーブルにノートパソコンを置き、毎晩それに向かった。開け放った窓から流れ込む静かな虫の鳴き声の中、彼は独りそれを試みた。僕は、で始まる小説。彼は何かすべきだと思った。とにかく何かすべきだ。と。そして彼は小説を書いた。僕は、で始まる小説。

 僕は、剥がれかけている。しかし、何から剥がれ掛けているのか分からないし、そもそも剥がれるといっても、僕が感じているのは朧気な剥がれ感のようなものであって、具体的な何かから剥がれ掛けているというのでもなかった。それでも僕は剥がれ掛けている。しかし剥がれ切れはしない。僕は、誰もいないこの部屋で机に向かいPCのキーボードを叩く。うまくするとこれは剥がれ掛けたカサブタを剥がし切る作業になるかも知れない。

「すみません。余計なことまでしゃべってしまいました」

 今何時なんだろう。相変わらず遠くから自動車の音が間欠的に聞こえてくる。そして、間髪的な虫の声。彼は駐車場の向こうの木立に視線を注ぐ、しっかりとした樹幹、伸びた樹枝、そこで一枚一枚樹葉が絡み合う。駐車場に視線を移す。アスファルト上で整列した自動車。彼は一回目を閉じ、開くと煙草を一回大きく吸い込み、灰皿にそれを押しつけて消した。彼は試しに男と男の奥さんについて考えてみようとしたけれど、それは無駄なことのような気がした。

「少しは眠くなってきましたか?」と男。
「だめですね」と彼。
「それでも明日は仕事です」
「・・・・・・」
「今から眠っても明日はきつそうです」男は少し苛ついた声でそう言うと、大きく一回タバコを吸い込んだ。男のタバコの赤い光が一際大きくなった。

 彼は目を閉じ、開く。
 風景が変る。
 透過性皆無の黒でコーティングされたツルリとした風景。
 それが彼の前に真っ直ぐ伸びている。
 どこまでもどこまでも果てしなく伸びている。
 ただ、そこに、ぽっかりと開いてしまったトンネルのように。
 彼はもう一度目を閉じ、開く。
 目の前にはいつもの真夜中の風景。
 
「一本いただけますか」と彼。
 しかし、もうそこには誰もいなかった。



 作者・未木洋佑さんの自己紹介とプロフィール
posted by 村松恒平 at 02:07| Comment(0) | TrackBack(0) | その日とそのほかの日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月26日

ある夜とそこにある隙間

 砂利敷きの私道に車を乗り入れると、傾ききった陽の中で砂埃が膨れ上がった。この時間、アパートの駐車場にはまだ彼女の車の他車はない。彼女はエンジンを切るとハンドルに両手を置いて、一回大きく息を吐いた。車内を満たし始めた薄闇が僅かに震る。彼女はもう一度短く息を吐くと、助手席に置いたスーパーの袋とバッグを取り車を出た。
 部屋の前でご近所の主婦とすれ違う。軽く会釈だけして、部屋の鍵を明ける。部屋の中からテレビアニメの音が漂い出る。
 ただいま。スーパーの袋とバッグをキッチンのテーブルに置き、子供たちのいる部屋を横切りベランダに出る。夜寸前の青い闇が辺りを満たしている。昨日の夜干した洗濯物を取り入れる。やはりこの時間では少し湿ってしまう。彼女は洗濯物を抱えて部屋へ入ると、カーテンを引いた。
 キッチンのテーブルに戻りタバコに火を点ける。そして隣の部屋の二人の子供を眺める。小学校5年生の長男はテレビに見入っている。小学校2年生の長女はあまりこのアニメには興味がないらしく、人形で遊んでいる。
「おかあさん、お父さんから電話あったよ」長男がテレビから目を離さず言った。
「お父さん、元気なんだって」と長女。
 部屋には夜の闇が漂い始めている。
「夜、おかあさんに電話するって」と長男。長女がうなずく。
「そう」短く答えてタバコを消す。
「電気つけなさい。目悪くなるよ」バッグから携帯を取り出し、着信を確認する。何個か目の番号で手を止めしばらくその番号を眺める。それから携帯を置き、新しいタバコに火を点ける。テーブルに置いたばかりの携帯が鳴り始める。
「もしもし」…………「どうしたの」…………「今帰ってこれから子供たちに夕飯をつくるところ」…………「えっ」…………「無理」…………「元気ないよ」…………「うるさいな」…………「だから無理だって」………… 電話が鳴り始めた。すかさず長女が電話を取った。「はい…………おとうさん…………おかあさん今電話中…………うん、またね」長女はそれだけ話すとあっさりと電話を置いた。「電話みたいだから」…………「約束はできないよ」…………「じゃあ」彼女は携帯を切った。タバコを灰皿に押し付け、冷蔵庫から缶ビールを取りだす。

 夕食を終え洗い物をしていると、長女が横に立って、父親が電話をしてきた理由を聞きたがった。彼女は洗い物をさっと終わらせ、長女と風呂に入った。髪を洗って、トリートメントもしてやる。トリートメントした長女の髪をタオルでくるみ、身体を流す。湯船につかった長女は頭をくるんだタオルが解けないように、じぃーとしている。髪を洗い身体を洗い長女の横につかる。長男が一緒にお風呂に入らなくなったのは何時頃からだろう。と彼女は思う。
 風呂を出てドライアーを掛け終わると、長女は長男のところへ行き髪を触らせた。「しっとりしてる」と長女。「うん」と長男。「トリートメントしてもらったの」長女はそう言って彼女を見た。「やったげようか」彼女は長男に言った。「遠慮しとくよ」と長男。その口調は父親そっくりだった。

 ふたりが寝てしまうと、キッチンテーブルの椅子を引き、持ちかえった資料を広げる。資料に目を通し、マーキングし、書きこみをする。そうしている時が一番落ち着けるように彼女には思えた。頭を空っぽにしてただ資料の文字だけを追う。いくつかの理解出来ない個所にアンダーラインを引き、グラフはひとつひとつの数字を照らし合わせじっくりと確認する。時間は過ぎる。時間はしっかりと過ぎている。ひと通り資料に目を通すと彼女はマーカーペンを置いた。缶ビールをもう一缶開けひと息で半分ほど空けた。
 照明を消した隣の部屋でテレビの画面が浮かんでいる。
 明日も仕事だ。明日は早く起きて、きちんと朝食を作ろう。味噌汁はお麩にして、目玉焼きと、やさいはレタスとトマト。ドレッシングはお酢とオリーブオイルで作って、それから、ソーセージを焼こう。それから牛乳は欠かせない。デザートはヨーグルトにはつみつをかけよう。オレンジを絞ってジュースも作ろう。
 彼女は缶ビールの残りをひと息で空けた。
 彼女はタバコに火を点ける。
 彼女はテーブルの上の携帯を見つめる。
 彼女はテレビのヴォリュームを上げる。
「遠慮しとくよ」父親そっくりの長男の声。
 涙が溢れてきた。
 泣きたくない。と彼女は思う。それでも、涙は次から次に溢れ出る。
 その時、 洗濯機が急激な音を立てて止まり、終了のアラームを鳴らした。
 彼女はタバコを置き、ティッシュペーパーを抜くと、鼻をかみ、涙を拭った。
 それから、ゆっくりとテーブルから立ち上がる。




 作者・未木洋佑さんの自己紹介とプロフィール
posted by 村松恒平 at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | その日とそのほかの日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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